小説置き場

第47話「ヌルポインタの墓標」

2,693文字 約6分

統括ノードの扉は、扉ではなかった。

 通路の突き当たりにあったのは、壁一面を覆う半透明のメンブレン——生体膜のようなインターフェースだ。触れると体温を感知して開く仕組みらしい。ゼロが先に手を当て、膜がゆっくりと左右に割れた。

 その先に広がっていたのは、おれが想像していたサーバールームとは全く違うものだった。

 巨大な球体。

 直径三十メートルはあるだろうか。天井も壁も床もない、球形の空間。その内壁全体が、青白い光の粒で埋め尽くされている。光の粒は一つ一つが微かに明滅していて、全体として見ると——呼吸しているように見えた。

「これが」リサが息を呑んだ。「統括ノード」

「違う」ゼロが首を振った。「これは統括ノードの可視化レイヤーだ。本体はこの球体の中心にある。光の粒は——」

「ユーザーだ」

 おれが言った。分かった。AR視界を切り替えなくても、分かった。

 光の粒の一つ一つに、IDが紐づいている。おれのハッキング異能が自動的に情報を引き出してしまう。目に入る光の粒すべてに、名前と、年齢と、異能カテゴリと、課金ティアと、そして——脳波パターンの波形が付随していた。

 フリープランユーザー。

 百二十万の光の粒。百二十万人分の脳波データが、この球体の内壁にリアルタイムで描画されている。

「美しいな」

 ゼロが呟いた。皮肉ではなかった。純粋な感想のようだった。それがかえって不気味だった。

「美しくねえよ」

「事実として美しいと言っている。善悪の話はしていない」

 おれはゼロを無視して、球体の内壁に近づいた。光の粒に手を伸ばす。触れると、情報パネルが展開された。

  ユーザーID: FP-0847291   氏名: 佐藤裕二   年齢: 34   課金ティア: Free   脳波演算リソース提供率: 23.7%   推定寿命影響: -4.2年

 マイナス四・二年。この人間は、フリープランで異能を使っている代償として、四年以上寿命を削られている。本人はおそらく知らない。利用規約の第四百八十二条あたりに、ほとんど判読不能なフォントサイズで書かれているだけだ。

 リサがおれの横に来た。

「クロヤ。あなたのご両親を」

「分かってる」

 探すつもりだった。最初からそのつもりでここに来た。データセンターの核心部にアクセスすれば、両親のデータが見つかる。死因の詳細、最後の脳波パターン、誰がどの承認フローで二人をフリープランに落としたのか。全てのログが残っているはずだ。

 おれはハッキング異能を全開にした。百二十万の光の粒の中から、二つを探す。

  検索条件: 姓=黒谷 / ティア変更履歴あり / ステータス=死亡

 検索が走った。球体の内壁を光が駆け巡る。ソートとフィルタリング。得意分野だ。おれの異能はこのために存在しているようなものだ。

 三秒で結果が返ってきた。

  検索結果: 0件

 おれは目を閉じて、もう一度開いた。検索条件を変えた。

  検索条件: 姓=黒谷 / 全ステータス / 全期間

  検索結果: 0件

 条件をさらに広げた。名前で検索した。IDの範囲を指定した。登録時期で絞った。知っている情報をすべて使った。

 すべて、ゼロ件。

「データがない」

 おれの声が自分で聞こえた。平坦な声だった。

「ない?」リサが聞いた。

「ない。親父のも、お袋のも。IDすら残ってない。ログも、脳波データも、課金履歴も、ティア変更の承認記録も。全部ない」

 ゼロが振り返った。

「消されたのか」

「消されたんじゃない。消去されたんだ。データの痕跡すら残っていない。通常の削除なら、削除フラグが立つだけでデータ本体はストレージに残る。だがこれは——物理的に上書きされてる。復元不可能な方法で」

 ゼロが腕を組んだ。

「Root直轄の権限でなければできない処理だな」

「ああ」

 おれは球体の内壁を見た。百二十万の光の粒。その中に、おれの両親はいない。どこにもいない。

 死んだ人間のデータが残っていれば、少なくとも痕跡はある。デジタルの墓標。誰かがここにいたという記録。だがRootはそれすら消した。おれの両親が存在したという事実を、システムから完全に抹消した。

 ヌルポインタ。参照先が存在しない。ポインタだけが空を指している。

 おれの中で何かが静かに折れた。怒りとは違う。怒りよりもっと冷たいもの。凍結されたプロセスが、バックグラウンドで永遠にリソースを食い続けるような、終わらない負荷。

「クロヤ」

 リサの声。

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃないでしょ」

「大丈夫だと言ってる。処理中だ。割り込むな」

 リサが黙った。ゼロも黙った。

 おれは球体の中心を見つめた。統括ノードの本体。青白い光の収束点。百二十万人の脳波を束ねて、演算リソースとして搾取するための中枢。

 ここにいた。おれの親父とお袋も、ここにいた。この球体の光の粒の一つだった。脳波を吸い取られて、寿命を削られて、それでも何も知らずに暮らしていた。そして死んだ後は、データごと消された。光の粒すら残らなかった。

 おれは右耳の後ろに手を当てた。ハッキング異能の起点。指先が冷たい。

「ゼロ」

「何だ」

「このシステムの設計者は、死んだユーザーのデータを消す理由があるか」

「ストレージの節約か、あるいは——証拠隠滅か」

「証拠隠滅だろうな。死因と脳波データを照合されたら、生体ボットネットとの因果関係が立証される。だから死んだユーザーのデータを物理消去している」

「合理的だ」ゼロが言った。「Rootらしい判断だな」

 合理的。そうだろう。合理的だ。人間を使い潰して、使い潰した証拠を消して、百二十万人の生きた人間の脳を演算装置として使い続ける。合理的で、効率的で、最適化されたシステム。

 おれは手を下ろした。

「リサ」

「何」

「おれは今まで、このシステムを壊すべきかどうか迷ってた。システムが無くなれば異能も消える。それが百二十万人にとって良いことなのか、悪いことなのか。おれに決める権利があるのか」

「……うん」

「迷うのをやめた」

 おれの声は静かだった。怒鳴っていない。拳も握っていない。ただ、おれの中のプロセスが一つ終了して、新しいプロセスが立ち上がった。それだけのことだ。

「データを消した人間と話がしたい。Rootに会う」

 ゼロが不穏な笑みを浮かべた。だがおれはゼロを見なかった。

 球体の奥。統括ノードの、さらに奥。おれたちは歩き続けた。百二十万の光の粒に囲まれながら。

 その光の中に、おれの両親はいない。

 ヌルポインタ。参照先なし。エラーコード、返り値なし。

 だが、おれはここにいる。ポインタの参照先が消えても、ポインタ自体は消えていない。おれという変数は、まだメモリ上に残っている。

 それで十分だ。