小説置き場

第43話「DDoSの人海戦術」

3,027文字 約7分

裏東京の夜が、いつもと違う色をしていた。

 データセンターの地上入口がある新宿サブエリア。普段はモデレーターの巡回が厳しく、裏東京のユーザーは近づかない領域だ。だが今夜は違う。

 おれはビルの屋上から見下ろしていた。リサが隣にいる。ミナミはすでに地上で指揮を執っている。

「始まったね」

 リサが呟いた。

 通りの向こう、データセンターの北側出入口付近で、最初のグループが動いた。二十人ほどのフリープランユーザーが一斉に異能を起動した。低ティアの異能——微弱な光、小さな物理干渉、取るに足りない力。だがそれを二十人が同時に発動すると、AR空間にノイズが走る。モデレーターの検知システムに大量のアラートが送信される。

「北側グループ、接触。モデレーター四体が対応に向かってる」

 ミナミの声が通信に乗った。おれたちが裏で構築した暗号化チャンネル。Root直轄の傍受を避けるための、使い捨ての通信ライン。

 南側でも動きがあった。別のグループが異能を発動。こちらは三十人。さらに東側、西側。データセンターの四方で同時に騒ぎが起きている。

 DDoS——分散型サービス妨害攻撃。大量のリクエストでシステムの処理能力を飽和させる。ネットワーク攻撃としては古典的だが、効果的だ。それを物理空間でやっている。百人以上の裏東京ユーザーが、データセンター周辺で一斉に異能を使い、モデレーターの注意を分散させる。

「モデレーターの配置状況は」

「地上のモデレーター全機が対応に出た。通常配備の十二体。地下三階の巡回モデレーターからも四体が地上に引き上げられてる。地下の警備は手薄になってるはずだ」

「はず、じゃ困るんだが」

「データセンターのモデレーター総数は二十体。うち十六体が地上対応。地下に残ってるのは最大四体。これ以上は引っ張れないよ」

 十分だ。地下に四体なら、対処できる。

「行くぞ」

 おれはビルの屋上から非常階段を駆け下りた。リサが後を追う。ミナミが事前に確保してくれた地上入口——データセンターの搬入口。普段は物資搬入用のドローンしか使わないルートだ。人間が通るには狭い。だが通れないわけじゃない。

 搬入口の電子ロックに手をかけた。右耳の後ろのインターフェースが熱を持つ。異能を起動。不正アクセス——ロックの認証プロトコルに干渉して、偽の認証を通す。

 三秒。ロックが外れた。

「早くなったね」

「慣れただけだ」

 データセンターの地下への階段を降りる。地下一階。サーバーラックが整列している。冷却ファンの低いうなりが空気を震わせている。AR上ではラックの一つ一つがデータの流れを可視化して青白く発光していた。

 モデレーターの気配はない。ミナミの情報が正しければ、地下一階の巡回は停止しているはずだ。

 地下二階。ここも無人。だがAR上に残留するモデレーターの走査痕跡が見えた。つい数分前まで巡回していた証拠だ。おれたちが来るほんの少し前に、地上に引き上げられたのだろう。

 通信にミナミの声が入った。

「北側の第一グループが撤退を開始。モデレーターが三体追跡してる。東側グループが第二波を仕掛けた。あと十分は持つ」

「十分。了解」

 十分。データセンターの地下七階まで到達するには短すぎる。だが今はファイアウォールまで行ければいい。その先は——先のことだ。

 地下三階。ここで初めて、モデレーターの残留個体と遭遇した。通路の曲がり角にいた。人型の影。AR上で青白く発光する監視者。だがその動きは鈍い。システムのリソースが地上の混乱に割かれていて、個体の処理能力が低下しているのだ。

 おれは異能で干渉した。モデレーターの監視プロセスに偽の認証トークンを注入する。正規の巡回員に見せかける偽装。二秒で通過した。モデレーターはおれたちに反応しなかった。DDoSが効いている。地上の騒ぎにシステムのリソースが吸い取られて、地下の警戒レベルが大幅に低下していた。

「地下四階への階段——あった」

 リサが通路の奥を指差した。他の階段とは明らかに違う。金属の扉。表面にオムニバースのロゴが刻まれている。Root直轄エリアの入口。

 扉を開けた瞬間、おれの目が焼かれた。

 光。純白の光が通路を完全に塞いでいた。天井から床まで、壁から壁まで。隙間なく。

 ファイアウォール。

 構造図で見たものとは次元が違った。映像では伝わらない圧がある。光の壁は静かに脈動していて、表面に微細な文字列が流れている。プロトコルのヘッダ情報。パケットフィルタリングのルールが可視化されたもの。触れた瞬間にあらゆるデータを検査し、不正なものを焼き払う。

「これか」

「これだよ。触らないで。触れた瞬間にアラートが飛ぶ」

「分かってる」

 おれはファイアウォールの前で立ち止まった。光の壁は美しかった。白い光の中に虹色の干渉パターンが走っている。Rootが作った最高のセキュリティ。完璧な壁。

「リサ。やれるか」

「やるしかないでしょう」

 リサが一歩前に出た。右手を持ち上げて、ファイアウォールの前にかざした。触れてはいない。表面から五センチのところで止めている。

「エンタープライズの認証署名は、ユーザーの生体パターンに紐づけられてる。凍結されても生体パターンは変わらない。私の署名がまだシステムに残ってるなら——」

 リサの手から微かな光が漏れた。淡い金色。エンタープライズの認証カラー。おれは見たことがなかった。プレミアムとは違う色。もっと深い、もっと重い金色。

「署名照合中——」

 リサが目を閉じた。ファイアウォールの表面に波紋が広がった。リサの署名を読み取っている。凍結されたアカウントの、残滓。削除されずにシステムの奥に残っていた、かつてのエンタープライズ権限の亡骸。

 五秒。十秒。十五秒。

 おれの心臓が叩いている。ここで弾かれたら終わりだ。アラートが飛んで、モデレーターが来て、おれたちは捕まる。DDoSの混乱もいつまでは持たない。

 二十秒。

 ファイアウォールの一点が——揺らいだ。

「通った」

 リサの声が震えていた。光の壁の中央部分、人一人が通れるくらいの範囲が、わずかに透明度を上げた。完全な穴ではない。ヒビだ。凍結アカウントの残滓では、完全な認証を通すことはできない。だがファイアウォールに一瞬の迷いを生じさせることはできた。

「今だ。走れ」

 おれはリサの手を掴んで、ヒビの入った光の壁に飛び込んだ。

 一瞬、全身を走査される感覚。データの流れが体を通り抜ける。パケットフィルタリングが作動しているが、リサの署名が残した一瞬の迷いが検査処理を遅延させている。遅延は零コンマ数秒。だが十分だった。

 おれたちは光の壁の向こう側に着地した。膝をついた。

「通ったぞ」

 振り返った。ファイアウォールはすでに修復されていた。ヒビが消え、再び完璧な白い光の壁に戻っている。戻る道はなくなった。

「一方通行か」

「想定内だよ。帰り道は、全部終わってから考えればいい」

 リサが立ち上がった。おれも立ち上がった。

 ファイアウォールの向こう側。Root直轄エリアの空気は、それまでとまるで違った。温度が低い。音がない。冷却ファンのうなりすら消えている。静寂。

 そして通路の壁に——文字が浮かんでいた。

 AR上に表示された巨大な文字列。見覚えがある書式。

「これ——利用規約だ」

 リサの声が固かった。

 通路の壁一面に、オムニバースの利用規約が刻まれていた。あの長大な、誰も読まない利用規約。それがAR上で物理的な壁として——次の関門が、おれたちの前に立ちはだかっていた。