カガミが最後に残した一語が、脳の中で反響し続けていた。
「——同期」
あの瞬間、カガミの声は情報屋のものではなかった。警告だった。システムメッセージの優先度で言えば、クリティカル。無視してはならない種類のアラート。
おれたちはアンダー・ラグの拠点に戻っていた。ミナミが用意してくれた廃ビルの一室。かつてはサーバールームだったらしく、壁にはまだラックの痕跡が残っている。今は空っぽの鉄骨が骨のように並んでいるだけだ。
「カガミが言った『同期』って、単なる比喩じゃなかったよね」
リサが壁際のパイプ椅子に座って、膝の上でデバイスを操作していた。画面にはカガミのオフィスから持ち出した暗号化ファイルの断片が並んでいる。
「比喩じゃない。カガミは言葉を選ぶ人間だ。技術用語を使ったなら、技術用語として受け取るべきだ」
おれは右耳の後ろのインターフェースに触れた。指先にかすかな熱。異能の残響がまだくすぶっている。広告ジャックで酷使した代償が抜けきっていない。
「同期。Synchronization。二つ以上のデバイスのデータを一致させる処理。クラウドとローカルのファイルを同じ状態にする。差分を検出して、新しい方で古い方を上書きする」
「上書き」
リサの指が止まった。
「クロヤ。テネシー計画の本質って、強制アップデートだと思ってた。ユーザーの異能を無理やり書き換えて、Rootが管理しやすい形に統一する。でも——」
「違う。アップデートじゃない。アップデートは既存のソフトウェアにパッチを当てる処理だ。ユーザー側のデータは残る。設定もカスタマイズも残る。個人の領域が保持される」
おれはデバイスを取り出して、カガミのファイルの暗号を解いた断片を表示した。三日かけて解読した内容。
「だが同期は違う。同期は——マスターデータで上書きする」
表示されたのは、テネシー計画の仕様書の一部だった。カガミが命懸けで持ち出した情報の中核。
Project TENNESSEE — Phase 3: Consciousness Synchronization Protocol 対象: 全アクティブユーザー(推定380万人) 処理内容: 個別意識パターンをRoot直轄サーバーのマスター意識に同期 同期後の個別意識: 上書き(非保持)
「非保持」
リサの声が震えた。
「個別意識を保持しない。つまり、個人の思考、記憶、意志——全部消える。Rootの思考パターンで上書きされる」
「三百八十万人の脳が、一つの思考で動く。Rootの思考で。個人は消えて、全員がRootの端末になる」
おれは壁に拳を叩きつけた。鉄骨が鳴った。
強制アップデートなら、まだましだった。異能を書き換えられても、意識は残る。抵抗できる。不満を持てる。反乱を起こせる。だが同期されたら——不満を持つ「個人」がいなくなる。反乱の主体が消える。
「完璧な支配だ。独裁者が恐れるのは反抗する意思だ。その意思そのものを消す。全員をRootのコピーにして、反抗という概念自体を消去する」
「IT的に言えば——シンクライアント」
リサが呟いた。
「端末には何も保存しない。全部サーバー側で処理する。端末はただの入出力装置。三百八十万台のシンクライアント。全部Rootのサーバーに接続されて、Rootの思考を表示するだけの画面になる」
おれは天井を見上げた。廃ビルの天井は低い。ひび割れたコンクリートに配管が這っている。
仕様書の別のセクションを開いた。同期プロトコルの技術的な詳細が書かれている部分。
「同期の実行方法も書いてある。AR層を介して、全ユーザーの脳インターフェースに同時に信号を送る。異能の帯域を利用して——帯域が広いほど同期の精度が上がる。プレミアムユーザーは完全同期。フリープランユーザーは帯域が狭いから部分同期。だが部分同期でも、自我の核は上書きされる」
「プランの格差が、消え方の格差になるわけ」
リサの声に皮肉な響きがあった。元エンタープライズの人間が言うと重い。
「フリープランは雑に消されて、プレミアムは丁寧に消される。消されることに変わりはないのに」
「サブスクの等級で死に方が変わる。冗談みたいだ」
おれはデバイスの画面をスクロールした。仕様書の末尾に、小さな注釈があった。
注: 同期完了後のユーザーの身体は正常に機能する。外見上の変化はない。ただし、すべての行動はRoot直轄サーバーからの指示に基づく
「外見上の変化はない——つまり、家族や友人から見たら、その人は生きてるように見える。話すし、笑うし、歩く。だけど中身はRootの命令を実行しているだけ。ゾンビだ。見た目は人間で、中身はプログラム」
「ゾンビプロセス。終了したのにプロセステーブルに残ってるやつ。親プロセスに回収されないまま、存在だけが続いている」
「親プロセスがRootか。最悪のゾンビ牧場だな」
「カガミはこれを知ってたから、あの一語を残した。テネシーの正体を知ってたから」
「知っていて、伝えようとした。でも時間がなかった。だから一語だけ——『同期』」
沈黙が落ちた。
おれは考えていた。親父とお袋は、生体ボットネットで寿命を削られて死んだ。フリープランのユーザーの脳を演算リソースとして搾取するシステム。それだけでも十分にふざけた仕様だった。
だがテネシーはその先を行く。寿命を削るのではなく、個人そのものを消す。三百八十万人の人間を、Rootの演算ノードに変える。
生体ボットネットが搾取なら、テネシーは消去だ。
「タイムリミットは」
「ファイルの断片から推定すると——同期プロトコルの起動準備は九十パーセント完了してる。データセンターのRoot直轄サーバーに全ユーザーの意識パターンのインデックスが作成済み。あとはトリガーを引くだけ」
「トリガーって」
「分からない。ファイルのその部分は暗号が解けなかった。だが、データセンターの物理サーバーから実行される。それだけは確実だ」
データセンター。オムニバースの中枢。裏東京の地下深くに存在すると言われている、Root直轄の聖域。
「行くしかないな」
「行くって——データセンターに?」
「他に選択肢があるか。同期プロトコルの起動を止めるには、物理サーバーを止めるしかない。リモートからのアクセスは不可能だ。Root直轄のセキュリティがかかっている。現地に行って、直接止める」
リサが黙った。五秒。十秒。そしてデバイスを閉じた。
「仕様書を持ってるのは私たち。カガミが残した情報を持ってるのも私たち。行けるのは——私たちだけだね」
「行けるかどうかは別問題だ。行くしかないってだけだ」
おれはインターフェースに触れた。異能が応答する。まだ不安定だが、動く。
三百八十万人の意識が消える前に。Rootの思考で上書きされる前に。
テネシー計画の同期プロトコルを——強制終了する。
それがおれたちの新しい契約だ。利用規約のバージョン2.0。条項は一つ。
第1条: 世界の同期を止める
シンプルすぎるだろ。だが、おれたちの契約はいつだってシンプルだった。複雑な仕様書はバグを生む。シンプルな設計だけが、本番環境で生き残る。
廃ビルの窓から、裏東京の夜景が見えた。灰色のウォーターマークを背負った人々が、何も知らずに歩いている。明日も歩いている。その意識が消されるかもしれないことを、まだ知らない。
おれは窓を閉めた。明日、教えに行く。