小説置き場

第40話「スリーウェイ・ハンドシェイク」

2,970文字 約6分

深夜二時。湾岸第三管理棟の外壁は、海風に晒されてコンクリートが黒ずんでいた。

 おれたち三人は、施設から二百メートル離れた倉庫の影に身を潜めていた。十二月の海風が冷たい。フリープランの防寒着は薄い。リサの肩が震えている。寒さか、緊張か。

「フェーズ1。監視カメラの無効化。おれが行く」

 おれはデバイスを起動した。施設のセキュリティネットワークに接続する。監視カメラ三十六台。映像は管理室のモニターにリアルタイムで送られている。カメラを物理的に破壊すれば即座に警報が鳴る。映像を切断しても同じだ。

 だから切断しない。映像を差し替える。

 おれの詐欺UI。偽のインターフェースを作る能力。それは画面上の偽物だけじゃない。映像データそのものを偽装できる。三十六台のカメラに、現在の映像と寸分違わない「偽の映像」をループ再生させる。管理室のモニターには、何も起きていない施設の映像が流れ続ける。

 三十六台同時。処理が重い。おれの脳の演算リソースが一気に消費される。こめかみの奥が熱い。

「カメラ、差し替え完了。有効時間は十二分。それ以上はループ映像のタイムスタンプがずれて発覚する」

「十二分。十分だ」

 ゼロが立ち上がった。黒いフードの下で目が光っている。

「フェーズ2。外周ガードの排除。俺が行く」

 ゼロが闇の中に消えた。足音がない。あの巨体で足音を消せるのは、訓練なのか異能なのか、おれには判別できない。

 三十秒。四十秒。一分。

 施設の北側で、微かな音がした。金属がぶつかる音。一瞬だけ。それから静寂。

 おれのデバイスに通信が入った。ゼロから。

「北側、二名。処理した。意識はない。三十分は起きない」

「南側は」

「これから」

 また静寂。二十秒後。

「南側、二名。処理完了。外周クリア」

 四名の深夜シフトガード、全員排除。九十秒で。ゼロの物理破壊力はバグに近い。人間の性能として規格外だ。

「フェーズ3。侵入と交渉。リサ」

 リサが頷いた。施設の正面入り口に向かう。おれも続いた。

 正面入り口には電子ロック。生体認証とパスコードの二重認証。普通なら突破に時間がかかる。だがおれの詐欺UIは認証画面そのものを偽装できる。ロック端末に「認証成功」の偽画面を表示させ、同時にバックエンドの認証プロセスをバイパスした。ドアが音もなく開いた。

 地下一階への階段。非常灯の薄い光だけが廊下を照らしている。足元のコンクリートが冷たい。

 拘留区画。独房が八室並んでいる。鉄のドア。小さな覗き窓。

 三番目の独房の前で、おれは立ち止まった。覗き窓から中を見た。

 カガミがいた。

 だが——おれの知っているカガミではなかった。

 床に座っている。壁にもたれかかっている。眼鏡がない。目が虚ろだ。唇が動いている。何かを呟いている。だが声が小さすぎて聞こえない。

 独房のロックを解除した。ドアを開けた。

「カガミ」

 反応がない。

「カガミ。おれだ。クロヤだ」

 カガミの目がゆっくりと動いた。おれを見た。だが焦点が合っていない。

「リサも来てる。迎えに来た」

 リサが独房に入った。カガミの前にしゃがんだ。

「カガミ。立てる?」

「リサ……?」

 声が掠れている。喉が渇いている。どのくらい水を飲んでいないのか。

「うん。リサよ。帰ろう」

「帰る……帰る場所が……」

 カガミの目がまた虚ろになった。唇が動いた。

「テネシーは……」

「テネシー?」

「テネシーは……アップデートじゃない……」

 おれとリサが顔を見合わせた。

「カガミ。テネシーが何だ。何を知った」

「同期だ……テネシーは……アップデートじゃない……同期だ……」

 それだけだった。カガミの目が閉じた。意識を失ったのではない。精神が限界に達しているのだ。尋問で何をされたのか。異能制限デバイスが手首に嵌められている。情報収集能力を完全に封じられた状態で、何時間、何日、閉じ込められていたのか。

 情報屋にとって、情報のない空間は拷問に等しい。カガミの精神はその拷問に耐えきれなかった。

「テネシーは同期。アップデートじゃない、同期」

 おれはその言葉を脳に刻んだ。意味は分からない。だが重要だ。カガミが精神の崩壊寸前に、それだけを口にした。意味がないわけがない。

「残り六分。急ぐぞ」

 ゼロが階段の上から声をかけた。見張りをしている。

 おれはカガミの右腕を取った。リサが左腕を取った。カガミの体は軽かった。元々細身だったが、さらに痩せている。拘留中、ろくに食事を取っていなかったのだろう。

 階段を上がった。一階の廊下。非常灯の光。正面入り口。

 外に出た瞬間、冷たい海風がカガミの顔に当たった。カガミが少しだけ目を開けた。

「外……」

「外だ。もう独房じゃない」

「情報が……ある……外には……」

 情報がある。外には。情報屋の本能が、意識の底から浮かび上がっている。

 倉庫の影まで戻った。ゼロが後方を警戒している。

「追手は」

「今のところない。だが管理室のシフト交代が朝六時だ。それまでに距離を取る必要がある」

 おれはカメラの偽装映像を解除した。脳の負荷が一気に下がった。こめかみの熱が引いていく。十二分の制限時間。使ったのは九分四十秒。ギリギリだった。

 カガミを背負った。軽い。

 三人で湾岸を離れた。夜の倉庫街を抜け、コンテナの隙間を縫い、工業地帯の無人の道路を通り、裏東京の境界まで。四十分の道のり。途中、巡回のドローンが一機、頭上を通過した。ゼロがおれたちを物陰に押し込んだ。ドローンの赤い光が通り過ぎるまで、三人で息を殺した。カガミの呼吸が浅い。

 カガミは時折意識を取り戻しては、同じ言葉を繰り返した。

「テネシーは……同期だ……」

「分かった。分かったから、今は休め」

「同期……意識の……同期……」

 意識の同期。裏帳簿にあった「意識同期サーバー」。二百億の使途不明金の八割が注がれていたシステム。テネシー・アップデートは、アップデートではなく同期だとカガミは言っている。

 何と何の同期なのか。誰の意識を、何に同期しているのか。

 答えはまだない。だがピースが一つ増えた。

 ジャンク屋に戻ったのは朝の四時だった。オヤジは寝ていたが、裏口の鍵は開いていた。おれたちが戻ることを知っていたかのように。

 カガミを奥の部屋に寝かせた。毛布を二枚かけた。異能制限デバイスを外した。おれの詐欺UIで認証を解除した。手首に赤い跡が残っている。

 リサがカガミの額に手を当てた。熱はない。だが顔色は悪い。

「しばらくは動けないわね」

「それでいい。情報は断片だけど、手がかりになる」

 ゼロが壁にもたれかかった。

「三人で動くのは——悪くなかった」

 ゼロが他人を肯定するのを初めて聞いた。おれもリサも、少し驚いた。

「スリーウェイ・ハンドシェイクだ」

「は?」

「TCP接続の確立手順。三回のやり取りで接続が成立する。SYN、SYN-ACK、ACK。今夜のおれたちがそれだ。おれが送信して、リサが応答して、ゼロが確認した。三回のやり取りで、初めて接続が成立した」

 ゼロが鼻を鳴らした。だが否定はしなかった。

 リサが小さく笑った。

「IT用語で人間関係を語るの、あなたの癖ね」

「癖じゃない。仕様だ」

 窓の外が白み始めていた。十二月の朝。クリスマスイブの朝だ。世間ではプレゼントを交換する日。おれたちは拘留施設からカガミを救出してきた。これがおれたちのクリスマスプレゼントだ。

 テネシーは同期だ。

 その意味を、これから解読する。