リサが着替えて出てきたとき、俺は三秒ほど固まった。
ジャンク屋のオヤジが見繕ったのは、カーキ色のカーゴパンツにグレーのパーカー。サイズは少し大きい。袖が手首から五センチ余っている。フードの紐が片方ない。つまり、俺と大差ないアンダー・ラグの標準装備だ。
だが着ている人間が違うと、服の意味が変わる。
銀髪がパーカーのフードの縁から零れている。背筋が伸びたままカーゴパンツを履いている姿は、アンダー・ラグの住民というより、アンダー・ラグのコスプレをしている令嬢だ。隠れてない。全然隠れてない。
「どう?」
「どうって何が」
「似合う?」
「似合うかどうかじゃなく、目立つかどうかの問題だ。髪をどうにかしろ。銀髪は上位ARレイヤーでも珍しいだろ」
「染めるの?」
「フードを被れ。それだけでいい」
リサはフードを被った。銀髪が隠れる。凍結ウォーターマークの赤い光がフードの奥で点滅している。これは隠せない。
「赤い光は」
「消す方法がないんだろう? あなたが教えてくれたじゃない」
「……まあな」
アパートの俺の部屋に戻った。六畳間に二人は狭い。リサは壁にもたれて座り、俺は椅子に座った。膝の上にデバイスを置く。充電は残量十二パーセント。オヤジに買った電源コードで充電しながら使う。コンセントの位置が壁の低い場所にしかないので、コードの長さがぎりぎりだ。
「契約の履行を始めよう」
リサが言った。声が変わっていた。パーカー姿でも、この声はエンタープライズの令嬢のものだ。
「上位ARレイヤーのことを話す。何から聞きたい?」
「全部。まず構造から。ARレイヤーの階層構造。誰が上にいて、誰が下にいて、どこに穴がある」
リサは少し考えてから、話し始めた。
「ARレイヤーは五つの層になっているの。下からスタンダード、プレミアム、ビジネス、エンタープライズ。そして最上層——Root直轄レイヤー。正式名称はない。住人は『テナント』と呼ばれている」
「Root直轄?」
「Rootはオムニバース社のシステム管理者。一人なのか複数なのかも分からない。エンタープライズの住人でさえ、Rootと直接話した人はほとんどいない。指示はシステム経由で来る。声を聞いたことがある人間は、私の知る限り三人」
俺はデバイスにメモを打ち込んだ。キーボードを叩く指が速くなる。
「各層の人口比は」
「スタンダードが全体の六割。プレミアムが二割五分。ビジネスが一割。エンタープライズが五パーセント未満。Root直轄レイヤーは公式には存在しないことになっている」
「課金額の差は」
「スタンダードが月額九千八百円。プレミアムが四万九千八百円。ビジネスは十九万八千円。エンタープライズは非公開。契約ごとに異なる。私の家の契約は、年間で八桁だった」
八桁。一千万円以上。年間で。無意識に右耳の後ろに手が伸びた。
「その金はどこに行く」
「オムニバース社の運営費。異能帯域の維持費。モデレーター部隊の経費。そしてRoot直轄レイヤーのインフラ。ただ」
リサの声が低くなった。
「エンタープライズの契約書には、使途不明の項目があったの。『システム最適化負担金』。契約全体の一割五分。私の父が何度か問い合わせたけど、回答は来なかった」
「一割五分が使途不明?」
「私が凍結される前に、最後にアクセスした会計データでは、エンタープライズ全体の使途不明金が年間で——」
画面が消えた。
デバイスのバッテリーが落ちた。
「——え」
充電ケーブルを確認する。繋がっている。だがコンセントの方を見ると、壁の差込口から火花が一瞬散った。
漏電。アンダー・ラグのこのアパートは電気系統も腐っている。壁の中の配線が劣化して、たまに電圧が不安定になる。コンセントに繋いでいても充電されていなかった可能性がある。
「まずい」
「何が?」
「デバイスが死んだ。充電が切れた。このデバイスがないと、俺は——」
何もできない。
ソーシャルエンジニアリングの詐欺UIも、ハードウェア割り込みも、近接ポート接続も、全てこのデバイスが起点だ。こいつがなければ、俺はただの無課金のユーザーだ。殴り合いは三秒で負ける。
リサが俺の顔を見た。
「充電できる場所は」
「闇市場にいくつかある。でも充電スポットはフリープランだと一回三十分の制限がある。フル充電には四時間かかる。四時間分の枠を確保するのに、金がいる」
「お金がいる?」
「金か、物々交換か、借り。どれにしても今すぐは無理だ」
沈黙。
窓の外で、誰かの怒鳴り声が聞こえた。遠い。日常の喧騒。アンダー・ラグでは珍しくない。
リサが立ち上がった。
「あの人、ジャンク屋のおじさん。充電設備は持ってない?」
「オヤジの店には発電機がある。でもあれは商売用だ。タダじゃ使わせてくれない」
「じゃあ交渉しましょう。私が」
「あんたが?」
「私、エンタープライズの交渉術を十二年間見てきたの。サブスクの解約は知らなかったけど、相手に"自分から差し出させる"方法は知ってる」
リサの目が光った。凍結ウォーターマークの赤ではなく、もっと内側からの光。
——こいつ、こういう顔もするのか。
「……行くか」
俺たちはアパートを出た。
闇市場に向かう路地で、リサが言った。
「さっきの話の続き。使途不明金の年間総額。エンタープライズ全体で、約二百億」
「二百億?」
「それがどこに消えているか。それを突き止めれば、Rootの正体に近づける」
二百億の使途不明金。で、その結果がこれなわけだが。
上位レイヤーの地図が、少しずつ見え始めている。
だが今の俺は、バッテリーが切れたデバイスを首から下げた、ただの無課金だ。
まず充電。話はそこからだ。