小説置き場

第4話「レイヤー構造の覗き穴」

2,276文字 約5分

リサが着替えて出てきたとき、俺は三秒ほど固まった。

 ジャンク屋のオヤジが見繕ったのは、カーキ色のカーゴパンツにグレーのパーカー。サイズは少し大きい。袖が手首から五センチ余っている。フードの紐が片方ない。つまり、俺と大差ないアンダー・ラグの標準装備だ。

 だが着ている人間が違うと、服の意味が変わる。

 銀髪がパーカーのフードの縁から零れている。背筋が伸びたままカーゴパンツを履いている姿は、アンダー・ラグの住民というより、アンダー・ラグのコスプレをしている令嬢だ。隠れてない。全然隠れてない。

「どう?」

「どうって何が」

「似合う?」

「似合うかどうかじゃなく、目立つかどうかの問題だ。髪をどうにかしろ。銀髪は上位ARレイヤーでも珍しいだろ」

「染めるの?」

「フードを被れ。それだけでいい」

 リサはフードを被った。銀髪が隠れる。凍結ウォーターマークの赤い光がフードの奥で点滅している。これは隠せない。

「赤い光は」

「消す方法がないんだろう? あなたが教えてくれたじゃない」

「……まあな」

 アパートの俺の部屋に戻った。六畳間に二人は狭い。リサは壁にもたれて座り、俺は椅子に座った。膝の上にデバイスを置く。充電は残量十二パーセント。オヤジに買った電源コードで充電しながら使う。コンセントの位置が壁の低い場所にしかないので、コードの長さがぎりぎりだ。

「契約の履行を始めよう」

 リサが言った。声が変わっていた。パーカー姿でも、この声はエンタープライズの令嬢のものだ。

「上位ARレイヤーのことを話す。何から聞きたい?」

「全部。まず構造から。ARレイヤーの階層構造。誰が上にいて、誰が下にいて、どこに穴がある」

 リサは少し考えてから、話し始めた。

「ARレイヤーは五つの層になっているの。下からスタンダード、プレミアム、ビジネス、エンタープライズ。そして最上層——Root直轄レイヤー。正式名称はない。住人は『テナント』と呼ばれている」

「Root直轄?」

「Rootはオムニバース社のシステム管理者。一人なのか複数なのかも分からない。エンタープライズの住人でさえ、Rootと直接話した人はほとんどいない。指示はシステム経由で来る。声を聞いたことがある人間は、私の知る限り三人」

 俺はデバイスにメモを打ち込んだ。キーボードを叩く指が速くなる。

「各層の人口比は」

「スタンダードが全体の六割。プレミアムが二割五分。ビジネスが一割。エンタープライズが五パーセント未満。Root直轄レイヤーは公式には存在しないことになっている」

「課金額の差は」

「スタンダードが月額九千八百円。プレミアムが四万九千八百円。ビジネスは十九万八千円。エンタープライズは非公開。契約ごとに異なる。私の家の契約は、年間で八桁だった」

 八桁。一千万円以上。年間で。無意識に右耳の後ろに手が伸びた。

「その金はどこに行く」

「オムニバース社の運営費。異能帯域の維持費。モデレーター部隊の経費。そしてRoot直轄レイヤーのインフラ。ただ」

 リサの声が低くなった。

「エンタープライズの契約書には、使途不明の項目があったの。『システム最適化負担金』。契約全体の一割五分。私の父が何度か問い合わせたけど、回答は来なかった」

「一割五分が使途不明?」

「私が凍結される前に、最後にアクセスした会計データでは、エンタープライズ全体の使途不明金が年間で——」

 画面が消えた。

 デバイスのバッテリーが落ちた。

「——え」

 充電ケーブルを確認する。繋がっている。だがコンセントの方を見ると、壁の差込口から火花が一瞬散った。

 漏電。アンダー・ラグのこのアパートは電気系統も腐っている。壁の中の配線が劣化して、たまに電圧が不安定になる。コンセントに繋いでいても充電されていなかった可能性がある。

「まずい」

「何が?」

「デバイスが死んだ。充電が切れた。このデバイスがないと、俺は——」

 何もできない。

 ソーシャルエンジニアリングの詐欺UIも、ハードウェア割り込みも、近接ポート接続も、全てこのデバイスが起点だ。こいつがなければ、俺はただの無課金のユーザーだ。殴り合いは三秒で負ける。

 リサが俺の顔を見た。

「充電できる場所は」

「闇市場にいくつかある。でも充電スポットはフリープランだと一回三十分の制限がある。フル充電には四時間かかる。四時間分の枠を確保するのに、金がいる」

「お金がいる?」

「金か、物々交換か、借り。どれにしても今すぐは無理だ」

 沈黙。

 窓の外で、誰かの怒鳴り声が聞こえた。遠い。日常の喧騒。アンダー・ラグでは珍しくない。

 リサが立ち上がった。

「あの人、ジャンク屋のおじさん。充電設備は持ってない?」

「オヤジの店には発電機がある。でもあれは商売用だ。タダじゃ使わせてくれない」

「じゃあ交渉しましょう。私が」

「あんたが?」

「私、エンタープライズの交渉術を十二年間見てきたの。サブスクの解約は知らなかったけど、相手に"自分から差し出させる"方法は知ってる」

 リサの目が光った。凍結ウォーターマークの赤ではなく、もっと内側からの光。

 ——こいつ、こういう顔もするのか。

「……行くか」

 俺たちはアパートを出た。

 闇市場に向かう路地で、リサが言った。

「さっきの話の続き。使途不明金の年間総額。エンタープライズ全体で、約二百億」

「二百億?」

「それがどこに消えているか。それを突き止めれば、Rootの正体に近づける」

 二百億の使途不明金。で、その結果がこれなわけだが。

 上位レイヤーの地図が、少しずつ見え始めている。

 だが今の俺は、バッテリーが切れたデバイスを首から下げた、ただの無課金だ。

 まず充電。話はそこからだ。