小説置き場

第39話「SLAの人間定義」

2,949文字 約6分

カガミが捕まった。

 知らせが来たのは、広告ハイジャックの翌日の夕方だった。裏東京の情報網を通じて。匿名のメッセージ。発信元不明。だが中身は具体的だった。

 「カガミ拘束。場所、湾岸第三管理棟。オムニバース社セキュリティ部門直轄の拘留施設。裏帳簿データ持ち出しの容疑。尋問中」

 おれはメッセージを三回読み直した。処理に時間がかかった。普段は2ミリ秒で済む判断が、三秒かかった。

「潜伏先が割れたか」

「カガミのログ偽装は七層だった。時間がかかっただけで、いずれ追跡されるのは覚悟の上だったはずよ」

 リサの声は平坦だった。だが手が震えていた。コーヒーカップを持つ指の先が、微かに揺れている。

 拘留施設。つまり牢屋だ。異能を制限するデバイスが装着され、外部との通信は完全に遮断される。カガミの情報収集能力は無力化されているだろう。あの男にとって、情報のない環境は窒息に等しい。

「カガミを助ける方法は」

「助ける?」

 ゼロの声がした。壁際の椅子に座っていた。背中を壁に預け、腕を組んでいる。いつの間にいたのか分からない。ゼロはいつもそうだ。気配を消して現れる。部屋のどこかに潜んでいて、必要なときだけ声を出す。デーモンプロセスみたいな男だ。

「カガミは情報ブローカーだろ。自分のリスクで動いた。捕まったのは自業自得だ。助ける義理はない」

「義理の話じゃない」

「じゃあ何の話だ」

 おれは黙った。ゼロの言っていることは論理的に正しい。カガミは自分の意思でデータを持ち出した。リスクを承知で。捕まることは想定内だったはずだ。

 しかも——カガミを救出に行けば、おれたちの居場所が露出するリスクがある。広告ハイジャックの直後だ。オムニバース社のセキュリティは警戒態勢にある。今、湾岸の施設に接近するのは極めて危険だ。

「情報を優先すべきだ」

 ゼロが立ち上がった。腕を組んだ。

「カガミが持っていた情報はもう手に入った。裏帳簿のデータはここにある。カガミ個人の安全と、この情報を使って何百万人を救えるかもしれない作戦の継続と、どっちが重い」

 合理的な判断。おれの脳もそう計算している。カガミ一人の命と、三百八十四万人のフリープランユーザー。天秤にかければ答えは明白だ。

 おれは窓の外を見た。裏東京の夕暮れ。灰色のAR光が、沈む太陽の赤と混ざっている。カガミの顔が浮かんだ。ヒビの入った眼鏡。震える手。「情報屋は死なない」と言って夜の路地に消えていった背中。

 あの背中を見捨てるのか。

「でも」

 リサがカップを置いた。震えていた手が、止まっていた。

「でも、じゃない。カガミを助ける」

 ゼロが眉を上げた。

「感情論か」

「感情論よ。それの何が悪いの」

 リサがゼロを真っ直ぐ見た。青い瞳に、おれは知らない種類の光が灯っていた。怒りではない。決意でもない。もっと深い何か。

「三年前、私がエンタープライズを飛び出したとき、カガミは何もできなかったと言った。三年間、自分を責めていた。それでも今回、命をかけてデータを持ち出してきた。私のために。私たちのために」

「だから?」

「だから助ける。人を見捨てて手に入れた勝利に意味はない。SLAに人間を定義する項目はないけど、私たちが人間であるかどうかは、こういう瞬間に決まるの」

 SLA。サービスレベルアグリーメント。サービスの品質を保証する契約。稼働率九十九・九パーセント、応答時間何ミリ秒以内。数字で定義される。だが人間の価値は数字で定義できない。

 おれはゼロを見た。ゼロの顔は無表情だった。だが目の奥で何かが動いた。一瞬だけ。

「クロヤ。お前はどう思う」

「おれは——」

 考えた。二秒。長い。

 カガミを助けるのは合理的ではない。リスクが高い。見返りが少ない。作戦全体を危険にさらす。

 だが。

 カガミがおれたちのために命をかけた。その人間を切り捨てて進む道は——おれの親父とお袋を殺したシステムと、何が違う。オムニバース社は人間を数字で管理する。廃棄ユーザー、月間八百四十七人。数字として処理して、切り捨てる。

 おれたちがカガミを数字として切り捨てたら、おれたちはオムニバース社と同じだ。

「助ける」

 ゼロが鼻を鳴らした。

「二対一か。民主主義は嫌いだ」

「多数決じゃない。おれ個人の判断だ。リサに同意する。カガミを見捨てない」

「理由は」

「人を数字で切り捨てるシステムを壊すために戦ってるのに、自分たちが人を切り捨てたら、おれたちの戦いに意味がなくなる」

 ゼロが三秒黙った。それから、腕組みを解いた。

「分かった。行く。ただし条件がある。作戦を立ててからだ。感情で突っ込んで全滅するのは最悪のシナリオだ」

「当然だ。おれも無計画で突っ込む気はない」

 リサがおれを見た。おれがリサを見た。

 何かが変わった、と思った。おれたちの間にあるもの。利用規約。契約。第1条から第6条。条文で繋がれた関係。

 だが今は、条文の外にあるものが見えている。条文に書いていない何か。信頼、という言葉が脳の中を通過した。使い慣れない言葉だ。フリープランの生活では、信頼という概念はバグに近い。信頼はコストが高く、裏切りのリスクが常にある。だから裏東京の人間は契約で繋がる。条文という名のプロトコルで。

 だがリサは今、プロトコルの外側で話している。契約に基づかない判断をしている。「人を見捨てない」。それは利用規約のどこにも書いていない。

 おれが「助ける」と言ったのも、契約に基づいていない。おれ個人の——何だ。倫理か。信念か。分からない。分からないが、確かなものだ。

「作戦を立てよう」

 おれはデバイスを開いた。湾岸第三管理棟。オムニバース社のセキュリティ拘留施設。ガシマの端末から入手したデータに、施設の概要情報がある。

「湾岸第三管理棟。地下二階、地上四階。セキュリティレベルはビジネスプラン相当。エンタープライズ級ではない。つまり突破可能」

「ガードの数は」

「常駐十二名。シフト制。深夜帯は四名に減る」

「拘留区画は」

「地下一階。独房が八室。面会室が二室。監視カメラ三十六台」

 ゼロが腕を鳴らした。物理的に。関節が音を立てた。

「四人か。深夜なら、俺一人で十分だ」

「物理だけじゃ足りない。監視カメラを無効化しないと、証拠が残る。おれの仕事だ」

「そして脱出ルートの確保は私」

 リサの声は落ち着いていた。もう手は震えていなかった。

 三人。三つの役割。

 おれの詐欺UI。リサの交渉術と情報。ゼロの物理破壊力。

 初めて——三人で組んで戦う。

「明日の深夜二時。決行する」

 三人が頷いた。

 ゼロが窓際に移動した。外を見ている。何を考えているか分からない。ゼロは自分の過去を語らない。だが今夜、この男は「分かった」と言った。合理的でない判断に、付き合うと言った。

 リサがおれの隣に座った。

「クロヤ」

「何だ」

「ありがとう」

「礼を言われることじゃない。おれ自身の判断だ」

「それが嬉しいの。契約だから助けるんじゃなく、あなた自身が助けると決めた。それが——信頼よ」

 信頼。やはりその言葉が出た。

 おれは右耳の後ろに手を伸ばした。癖だ。照れているのかもしれない。そんな感情、フリープランの生活では処理したことがなかった。

 窓の外で、裏東京の夜が深まっていく。明日の今頃、おれたちは湾岸にいる。

 利用規約には書いていない。だが、これがおれたちの——契約だ。