小説置き場

第37話「404 Truth Not Found」

2,873文字 約6分

情報を武器にする方法を、おれは知っていると思っていた。

 データを公開する。事実を並べる。数字は嘘をつかない。二百億の使途不明金、意識同期サーバー、Root直轄の隠し部門——これだけの証拠があれば、オムニバース社は逃げられない。そう思っていた。

 甘かった。

 午前九時。おれはジャンク屋の端末から、裏帳簿のデータを匿名掲示板に投稿した。暗号化を解除した生のデータ。仕訳帳のスクリーンショット。勘定科目の一覧。使途不明金の推移グラフ。全部だ。

 投稿先は三箇所。裏東京の住人が集まる匿名掲示板。表のニュース系フォーラム。そしてエンタープライズ層の投資家向け情報交換サイト。カガミから借りていたアクセス権限を使った。

 投稿から十二分。最初の反応が来た。

 裏東京の匿名掲示板。

 「マジか」「二百億?」「これガチなら終わるだろ」「オムニの株持ってるやついる? 売れ」

 期待通りの反応だった。数字の衝撃は大きい。二百億という金額は、フリープランの人間にとっては天文学的な数字だ。裏東京の住人の年収を全員分足しても届かない。

 投稿から二十八分。エンタープライズ層の投資家フォーラムでも議論が始まった。

 「監査報告書に載っていない二百億は確かに問題だ」「これが本物なら株主総会で追及すべき」「データの出所は? 信頼性の検証が必要」

 論理的な反応。投資家は感情ではなく数字で動く。データの真偽さえ確認できれば、彼らは動く。おれはそう読んでいた。

 投稿から四十三分。

 流れが変わった。

 表のニュースフォーラムに、一つの記事が投稿された。投稿者はオムニバース社の公式アカウント。

 タイトル——「フェイクニュースに関する声明」。

 おれは画面を凝視した。

 「本日、匿名掲示板およびSNS上において、当社の会計データを偽装した虚偽情報が拡散されていることを確認いたしました。当該データは完全な捏造であり、当社の実際の会計記録とは一切関係がございません。現在、法務部門が発信元の特定および法的措置の準備を進めております」

 四十三分。投稿からわずか四十三分で公式声明を出してきた。準備されていたかのような速さだ。いや、準備されていたのだろう。裏帳簿が持ち出されたことを、彼らは知っている。カガミの逃走経路を追跡できなかったとしても、データの流出自体は把握していたはずだ。

 続けて、オムニバース社は「正しい会計情報」と銘打った資料を公開した。表の帳簿のデータ。監査法人の署名入り。第三者機関のお墨付き。おれが出した裏帳簿の数字と、公式の数字が並べられた。違いは歴然だ。だが、どちらが本物か——公式の署名入り資料と、匿名掲示板の投稿。一般人がどちらを信じるか、考えるまでもない。

 さらに追い打ち。オムニバース社の広報担当がARニュース番組に出演し、丁寧な口調で語った。「悪意ある情報操作に惑わされないでください。私たちは皆様の信頼に応えるべく、透明性の高い経営を続けてまいります」。透明性。二百億を隠しておいて、透明性。

 声明の直後、フォーラムの空気が反転した。

 「やっぱフェイクか」「匿名投稿を信じるなよ」「オムニが公式で否定してるのにまだ言ってるのか」

 裏東京の掲示板でも風向きが変わり始めた。

 「公式が否定してるぞ」「データの出所が匿名じゃ信用できないな」「おれたちに都合のいい話すぎないか? 逆に怪しい」

 おれは椅子の背もたれに体を叩きつけた。

「嘘だろ」

「嘘じゃないわ」

 リサが隣で画面を見ていた。表情は冷静だった。おれよりずっと。

「企業の危機管理は、こういうものよ。不正の証拠が出たとき、最も効果的な対処は、否定ではなく再定義。証拠そのものの信頼性を攻撃する。真偽の議論に持ち込めば、時間が味方になる。人は飽きるから」

「飽きる?」

「三日もすれば別のニュースが流れる。一週間後には誰も覚えていない。それがフェイクニュース戦略の本質。真実を消すんじゃない。真実を埋めるの」

 おれは画面をスクロールした。投稿から一時間が経過していた。裏東京の掲示板では既にスレッドが流れ始めている。新しい話題——今週のガチャの排出率、モデレーターの新しい巡回ルート——が上に来ている。

 一時間。たった一時間で、二百億円の不正が「よくあるフェイクニュース」に分類された。

 エンタープライズ層の投資家フォーラムはまだ議論が続いていたが、論調が変わっている。「公式声明を受けて、データの信頼性に疑問」「匿名投稿のデータを根拠に投資判断するのはリスクが高い」「様子見が妥当」。

 様子見。つまり何もしない。

 おれはデバイスを閉じた。右耳の後ろに手が伸びた。癖だ。苛立つとこうなる。

 ジャンク屋のオヤジが奥から顔を出した。

「坊主、顔が怖いぞ」

「怖い顔してるのは知ってる」

「コーヒー淹れるか」

「いい。胃が荒れてる」

 オヤジが引っ込んだ。おれはモニターの電源を落とした。暗い画面に自分の顔が映った。確かに怖い顔だ。

「負けた」

「負けたわね」

 リサの声に悔しさはなかった。最初から分かっていたかのような声だった。

「分かってたのか。こうなるって」

「予測はしてた。でも、やってみなければ分からないこともある」

「何が分かった」

「あなたが学ぶべきことが分かった」

 リサがおれを見た。青い瞳。真っ直ぐな目。

「情報だけじゃ勝てない。クロヤ。データは弾丸よ。でも弾丸だけでは戦争に勝てない。銃がいる。照準がいる。そして——撃つタイミングがいる」

「見せ方が必要だってことか」

「そう。正しい情報を、正しい相手に、正しいタイミングで、正しい形で届ける。それができなければ、どんな真実も404になる。ページが見つかりません。存在するのに、誰にも届かない」

 おれは天井を見た。ジャンク屋の天井。染みがある。この染みを毎日見ている。

 情報だけじゃ勝てない。

 分かった。痛いほど分かった。おれは技術屋だ。データを扱うのは得意だ。だがデータの見せ方は知らない。マーケティングの領域だ。人の心を動かす技術は、プログラミングとは違う言語で書かれている。

「もう一回やるぞ」

「方法を変えて?」

「方法を変えて。次は、見せ方から考える」

 リサが小さく頷いた。

 窓の外で、フリープランの広告が誰かの視界をジャックしている。五秒間のスキップ不可。毎日、何百万人が強制的に見せられる広告。

 広告。

 強制的に見せる。

 おれの脳が、何かを掴みかけた。まだ形になっていない。2ミリ秒では足りない。もう少し時間がいる。

「リサ。フリープランの広告配信の仕組み、詳しいか」

「エンタープライズ時代に広告システムの管理権限を持っていたわ。なぜ?」

「アイデアがある。まだ生煮えだけど」

 おれはコーヒーを淹れ直した。結局飲むのか。薄いやつ。考え事には、薄いコーヒーが合う。苦味が少ない分、思考のリソースを味覚に取られない。

 リサが自分のカップも差し出した。おれは黙って淹れた。二杯分の薄いコーヒー。砂糖なし、ミルクなし。プレミアムエリアの千二百円とは真逆の味。

 二百億の真実は、まだ死んでいない。埋められただけだ。掘り起こす方法を、今から考える。

 次は、正面からじゃない。背中から刺す。