小説置き場

第36話「裏帳簿のダンプ」

3,105文字 約7分

深夜二時。裏東京のジャンク屋の裏口に、カガミが転がり込んできた。

 文字通り転がり込んだ。ドアを開けた瞬間、膝から崩れ落ちて、床に額をぶつけた。眼鏡が飛んだ。おれが拾った。レンズにヒビが入っている。

「カガミ。何があった」

 リサが駆け寄った。カガミの顔色は、プレミアムエリアの空調で維持されていた白さとは違う種類の白だった。血の気がない。左腕の袖が裂けていて、中から赤い線が覗いている。出血はしているが深くはなさそうだ。

「データ。持ってきた」

 カガミが震える手でポケットから小さな記憶装置を取り出した。親指の先ほどのサイズ。エンタープライズ級の暗号化ストレージだ。闇市場では百万で取引される代物。

「何のデータだ」

「裏帳簿。オムニバース社の。エンタープライズ層の経理部門が使っている非公開の会計データベース。過去五年分」

 おれの脳が2ミリ秒で状況を処理した。裏帳簿。つまり表の帳簿とは別の、本当の数字が書かれたデータ。企業の不正を暴くには最も効果的な証拠の一つだ。

「どうやって持ち出した」

「情報ブローカーの仕事で、エンタープライズの経理端末にメンテナンスアクセスする案件があった。定期点検。正規の業務。その間に裏帳簿のデータベースを見つけて、コピーした」

「見つけて、コピーした。それだけか?」

「それだけだよ。簡単に言えば」

 簡単じゃない。エンタープライズの経理端末は、アクセスログが十二重に記録される。コピー行為は即座にアラートが飛ぶ。それをかいくぐってデータを持ち出すには——

「ログの偽装に何層使った」

「七層。残りの五層はアラートを二時間遅延させるスクリプトを仕込んだ。二時間がタイムリミット。今の時点で残り——」

 カガミが腕時計を見た。AR表示ではなく、物理的な腕時計。情報ブローカーが最後に信用するのはアナログだ。

「十四分」

「十四分で追跡される」

「うん。だからここには長くいられない。データだけ渡して、俺は消える。しばらく潜る」

 リサがカガミの腕の傷を見ていた。

「これは」

「逃げる途中でモデレーターの巡回に引っかかった。戦闘用の異能じゃないからね、俺は。情報収集と偽装が専門だ。殴り合いは向いてない」

 おれは記憶装置を受け取った。小さい。親指の先。この中に、オムニバース社の五年分の裏側が入っている。

「なぜ持ち出した。お前は情報ブローカーだろ。金で情報を売る側の人間だ。リスクを冒してタダで渡す理由がない」

 カガミが眼鏡を——ヒビの入った眼鏡を、おれの手から受け取ってかけ直した。

「リサに借りがある」

「借り?」

「三年前。俺がエンタープライズの情報ブローカーとして独立したとき、資金を出してくれたのがリサだった。エンタープライズの令嬢が、何の実績もない若造に五百万出した。理由を聞いたら、『情報は人を自由にするから』って」

 リサを見た。リサは何も言わなかった。

「格好いいでしょ。でもリサが凍結されてから、俺は何もできなかった。三年間。情報屋なのに、リサの凍結を解除する情報を見つけられなかった。だからせめて、今できることをやる」

 カガミが立ち上がった。膝が震えている。

「残り九分。行くよ」

「どこに潜る」

「言えない。追跡されたとき、お前たちに辿り着かれると困るから。情報ブローカーの鉄則。持ってない情報は漏らせない」

 正しい。論理的には正しい。だが。

「カガミ」

 リサの声が低かった。

「ありがとう。——無事でいて」

「無事でいるよ。情報屋は死なない。死んだら情報の価値がゼロになる。在庫を抱えたまま廃業するバカはいない」

 カガミが裏口から出ていった。暗い路地に消えた。足音がすぐに聞こえなくなった。情報ブローカーは足音を消すのが上手い。

 おれは記憶装置を手のひらで転がした。軽い。こんな小さなものに、何百人、何千人の命に関わる真実が入っているのか。

 ジャンク屋のオヤジが奥からコーヒーを二杯持ってきた。薄いやつ。いつもの。

「深夜にお客さんとは珍しいね。事情は聞かないけど、血の跡は拭いておきな」

 カガミが膝をついた場所に、赤い点が散っていた。リサが布巾で拭いた。無言で、丁寧に。

 おれは記憶装置をジャンク屋の端末に接続した。暗号化の解除にカガミが残したパスワードを入力する。三十二桁の英数字。カガミは紙に書いて渡してきた。デジタルに残さない慎重さ。パスワードを入力し終わったら紙を燃やした。灰皿の中で紙が黒くなった。証拠は残さない。

 データが展開された。

 ファイル数、三万二千七百四十一。会計データベース。仕訳帳。勘定科目。予算配分表。監査レポート。

 リサが隣に座った。元エンタープライズの令嬢は、会計データの読み方を知っている。

「ここ。使途不明金の項目」

 リサが画面を指した。

 使途不明金。五年間の累計。

 二百四億七千三百万円。

「二百億」

「二百億。表の帳簿には載っていない支出。公式の監査報告書にも記載されていない。エンタープライズの株主にも開示されていない」

「何に使った?」

 リサがファイルを掘り下げていく。勘定科目コード。予算配分先。部門コード。

「この部門コード。RT-SYNC-00。Root直轄階層の中でも、一般のRoot権限者には見えない隠し部門。予算の八十四パーセントがこの部門に流れている」

「八十四パーセント。つまり百七十億近くが一つの部門に」

「部門名がある。意識同期サーバー運用課」

 意識同期サーバー。

 おれの脳が処理を停止した。三秒。長い停止だった。

「意識同期って何だ」

「分からない。この帳簿には金額と部門名しか書かれていない。でも——」

 リサがデータの中から月次の支出明細を引き出した。

「電力費。冷却費。帯域維持費。人件費。全部サーバー運用に典型的な費目よ。でも規模がおかしい。この電力費だけで、裏東京の電力消費量の三倍に相当する」

「サーバーに、裏東京三つ分の電力を使ってる」

「そう。何を動かしているのか分からないけど、とんでもない規模のシステムが、誰にも知られずに稼働している」

 おれは画面を見つめた。数字の羅列。二百億の使途不明金。意識同期サーバー。裏東京三つ分の電力。

 テネシー・アップデート。生体ボットネット。フリープランユーザーの脳演算リソースの搾取。月に八百四十七人の廃棄。

 全部が、繋がり始めている気がした。まだ全体像は見えない。ジグソーパズルのピースが散らばっているだけだ。だが輪郭が見え始めている。

「このデータを公開する」

「公開?」

「世間に見せる。裏帳簿を暴露すれば、オムニバース社は説明を求められる。二百億の使途不明金。監査報告書に載っていない支出。株主が黙っていない」

 リサが少し考えた。

「方法は?」

「考える。今夜中に」

 リサがコーヒーを飲んだ。冷めている。だが文句は言わなかった。元エンタープライズの令嬢が、裏東京の薄いコーヒーを黙って飲んでいる。三年前とは別人だ。

「もう一つ気になるデータがある」

 リサが別のファイルを開いた。意識同期サーバーへの帯域割り当て。毎月の帯域使用量が、テネシー・アップデートの実施月に急激に跳ね上がっている。

「テネシーのたびに帯域が増える。つまりアップデートのたびに、このサーバーの処理負荷が上がっている。何かを——同期している。ユーザーが増えるたびに」

 おれは右耳の後ろに手を伸ばした。癖だ。考えるときの。

「同期。何と何を同期してるんだ」

「それが分かれば、全部分かるのかもしれない」

 窓の外は暗かった。裏東京の夜。ARの灰色の光が路地を照らしている。フリープランの夜景。

 おれの手の中には、親指の先ほどの記憶装置がある。この中に、二百億円分の秘密が入っている。

 カガミが命をかけて持ち出したデータだ。無駄にはしない。