小説置き場

第33話「スタンダードの武人」

3,036文字 約7分

そいつは経費を使わなかった。

 テネシーの情報を追ってデータセンター周辺を調査していた三日目の午後。新宿の裏路地で、おれとリサは挟み撃ちにされた。

 モデレーター二名。後方から回り込んできた。フォーメーションは教科書通り。片方が射線を確保し、もう片方が接近する標準的な包囲戦術だ。

 おれは即座に詐欺UIを展開した。二名のAR視界に偽のシステム警告を割り込ませる。

 『警告:ニューロ・リンク認証に異常が検出されました。至急オムニバース社カスタマーサポートに連絡してください。放置すると課金データが消失する可能性があります』

 定番のサポート詐欺だ。モデレーターの大半はこれで一瞬手が止まる。課金データの消失という文言がPay to Win依存のモデレーターには致命的に映るからだ。

 一人が手を止めた。予定通り。だが——もう一人が止まらなかった。

 止まらないどころか、偽警告が表示された瞬間、視線すら動かさなかった。

「フィッシング。無視」

 短い言葉。低い声。そしてそいつは偽警告を消しもせず、ただ無視して前進を続けた。

 おれは2ミリ秒で状況を再評価した。

 手が止まったモデレーターは雑魚だ。問題はもう一人。制服のデザインが違う。肩章が金色。幹部クラス。だが幹部のくせに体型が絞れている。ガシマのような贅肉がない。軍人の体だ。

 リサが横から囁いた。

「カイン。モデレーター第三部隊の隊長。注意して」

「知り合いか」

「名前だけ。エンタープライズにいたとき、報告書で何度か見た。評価は——『最小コストで最大成果を出す異端児』」

 最小コスト。おれの脳が引っかかった。

 おれは二段目のUIを展開した。クリックジャッキング。カインの前方に透明な同意ボタンを重ねる。通常なら、前進する際に何かの操作をしようとした瞬間、意図しない「武装解除に同意」をタップさせられる。

 カインは足を止めた。

 止めた理由が異様だった。透明ボタンの存在に気づいたのではない。カインは前方のAR表示を確認してから、一歩ずつ、自分の操作領域を目視で検証しながら歩いていた。

 操作する前に、必ず確認する。

 おれの詐欺UIの根幹は「操作の自動化」を突くことにある。人間は慣れた操作を無意識にやる。ポップアップが出たら閉じる。ボタンがあったら押す。その自動化に罠を仕掛けるのがソーシャルエンジニアリングだ。

 だがカインは自動化していない。全ての操作を手動で、確認してから実行している。

 まるで——初めてパソコンに触る老人のように、慎重に。

 だがその慎重さの裏に、恐ろしい速度があった。

 カインが動いた。確認を終えた瞬間、爆発的な速度で距離を詰めてきた。おれは反射的にデバイスを構えて後退したが、カインの拳がデバイスの表面を掠めた。0.3秒。おれが構えてから0.3秒で射程に入られた。

 リサが横から介入した。カインの打撃軌道に体を割り込ませ、広告のタイミングを計算して——だが広告は来なかった。カインの攻撃が広告のインターバルの合間を正確に縫っていた。

「広告の周期は把握している」カインが言った。「フリープランの広告は平均六分二十二秒間隔。最後の広告から四分十七秒。次の広告まで二分五秒。その間に決着がつく」

 おれの背筋が凍った。こいつ、フリープランの広告タイミングを暗記しているのか。

「退くぞ、リサ」

 おれは判断した。撤退だ。こいつは今まで戦ったどの敵とも違う。

 路地を全力で走った。リサが隣を走る。カインは追ってこなかった。追う必要がないと判断したのか、追う気がなかったのか。

 三ブロック先の廃ビルに飛び込んで、ようやく足を止めた。

「何あれ」リサが息を切らしていた。「モデレーターって全員、経費の化け物じゃなかったの」

「違った。あいつは違う」

 おれはデバイスで情報を引いた。カインのアカウント情報。ゼロの偵察データの中に断片的な情報がある。

 表示された内容を見て、おれは目を疑った。

「スタンダードプラン。月額九千八百円」

「え?」

「カインのプランはスタンダードだ。月額九千八百円。モデレーター幹部が、一番安い有料プランで戦っている」

 リサが目を見開いた。

「モデレーターは経費でPay to Winを無制限に使えるはずよ。なぜわざわざ自腹で——」

「経費に頼らないためだ」

 おれの脳が処理を完了した。カインの行動原理が見えた。

 ガシマは経費でSSRガチャ武器を召喚しまくる「札束で殴る」タイプだった。モデレーターの大半はそうだ。オムニバース社の経費が付くから、自分の金を使う必要がない。

 だがカインは自腹だ。月額九千八百円を自分の財布から払っている。経費を使わない。Pay to Winに頼らない。最小限の課金で、最大限の効率を出す。

 おれたちが強制リボ払い化でガシマを倒せたのは、ガシマが経費に依存していたからだ。課金を削れば弱くなる。だがカインは最初から課金が最小限だ。削る課金がない。

「クレカ限度額超過も効かない。スタンダードプランの月額を削ったところで、あいつの戦闘力は落ちない。あいつの強さは課金じゃなく、技量だ」

 リサが壁にもたれかかった。

「在庫がないのよ。あの人には」

「在庫がない?」

「私の交渉術——『在庫を読む』は、相手が何かに依存していて、その在庫を把握することで交渉を有利にする技術。でもカインには在庫がない。依存しているものがない。削るべき弱点がない」

 おれとリサの戦術は、どちらも「相手の弱点を突く」ことに特化している。おれは心理の隙を突き、リサは経済的な依存を突く。だがカインには心理の隙がなく、経済的な依存もない。

 今まで戦ってきた全ての敵は、何かに依存していた。モデレーターは経費に。ガシマは課金武装に。堂本は手続き論に。

 カインは何にも依存していない。月額九千八百円の武人。

「詐欺UIも見抜かれた」おれは壁に拳を当てた。「あいつは操作の前に必ず確認する。自動化の隙がない。おれの戦術の根幹が、あいつには通じない」

「つまり——」

「つまり、おれたちは初めて、正面からの知恵比べを強いられている」

 リサがおれを見た。おれはリサを見た。

「方法はある?」

「今はない。だが見つける。あいつにだって行動原理はある。何にも依存していないように見えて、何かを信じているはずだ。人間が何も信じないまま、あそこまでストイックにはなれない」

「何を信じてると思う?」

 おれは考えた。カインの動き。カインの言葉。カインの装備。全てが最小限で、全てが合理的で、全てが——正しかった。

「正しさ。あいつは正しくあることを信じている」

 リサの目が光った。何かを掴みかけた目だ。交渉者の目。在庫を読む目。

「正しさ、か。——それなら、読めるかもしれない」

「読めるのか? 在庫がないって言っただろ」

「在庫はない。でも——信仰ならある。信仰は在庫より脆いわ。在庫は増減するだけだけど、信仰は裏切られると壊れるから」

 おれはリサを見た。こいつ、いつの間にこんなことを言うようになった。エンタープライズの令嬢が、無課金の詐欺師みたいなことを。

「次に会ったとき——私に任せて」

 リサの声には、おれが教えた詐欺師の冷たさと、リサ自身の交渉者の芯の強さが混ざっていた。

 おれは頷いた。

 カインとの次の遭遇。それがおれたちの頭脳戦の始まりだ。

 月額九千八百円の武人に、課金ゼロの詐欺師と凍結解除済みの交渉者がどう立ち向かうか。

 おれはデバイスを開いた。カインの行動パターンの解析を始める。正しさを信じる人間の、正しさの構造を暴く。

 これは今までで一番難しい仕事になる。