隣の部屋から悲鳴が聞こえた。正確には悲鳴というより、品のいい叫び声だった。「きゃあ」ではなく「——っ!?」という、感情が言語化される前に喉を突き破ったような音。
朝の六時。生体ボットネットの四時間労働を終えた脳がぼんやりする中、俺はマットレスから起き上がった。体が重い。昨日の逃走と戦闘のツケが、一晩寝ても全然引いていない。肩の筋肉が軋む。右手の指が痺れている。モデレーターの後頭部にデバイスを押し当てたとき、手首を捻ったらしい。無課金の体は回復も遅い。
壁越しに声が聞こえる。
「何ですか、これ。消えないんですけど。消して。消えなさい」
リサだ。
廊下に出て隣の部屋のドアを開けた。鍵はない。ドアが閉まるだけだと昨日言った。
リサは部屋の真ん中に立っていた。銀髪が寝癖で左側だけ跳ねている。昨日のドレスのまま。着替えがないのだから当然だ。その前に、手のひらを顔の前でひらひらさせている。何かを払いのけるような仕草。
「何やってんだ」
「この文字。視界にずっと出ているの。薄い灰色の。Omniverse Freeって」
ああ。
「ウォーターマーク」
「消し方を教えて」
「ない」
「……ない?」
「消す方法がない。フリープランの透かし文字は、何をしていても、何を見ていても表示される。飯食ってても。寝てても。たぶん死んでも消えない」
リサの顔から血の気が引いた。上位ARレイヤーのエンタープライズ契約では、ウォーターマークなんて存在しない。プレミアムプランですら非表示にできる。フリープランだけだ。視界の隅に永遠に居座る灰色の刻印は。
「私、昨日まで凍結マークは出ていたけど、それ以外の表示は何もなかった。凍結が解除されてフリープランに移行した途端にこれ?」
「凍結中はシステムから切り離されてるから広告もウォーターマークもない。フリープランに接続された瞬間から、おめでとう、お前もゴミ箱の仲間だ」
リサの目が、視界の右端——ウォーターマークが浮かんでいるはずの位置——を睨んだ。睨んでも消えない。
「……慣れるのに、どのくらいかかるの」
「三年住んでるけど慣れてない」
「最悪」
そのとき、リサの視界を何かがジャックした。
彼女の瞳が一瞬で焦点を失い、虚空を見つめる表情になった。五秒間。きっちり五秒。目の前にいるのに、こっちが見えていない。
広告だ。
五秒後、リサの焦点が戻った。そして、今まで見たことのない表情をした。怒りでも絶望でもない。侮辱されたような、プライドの芯を踏まれたような冷たい憤怒。
「今のは何」
「フリープランの動画広告。五秒間、スキップ不可。一日に平均四十回来る」
「四十回」
「朝が多い。起きた直後に三連続で来ることもある。目覚ましより正確だ」
「……一日のうち三分半近く、強制的に広告を見させられるということ?」
計算が速い。脳が2ミリ秒で検算して、同じ答えに辿り着いた。さすが元エンタープライズ。
「もっとだ。パーソナライズ広告はフードを被ってれば回避できるが、システム広告は回避不能。合計すると一日七分から十分。年間で四十時間以上の人生を広告に奪われてる計算になる」
リサは黙った。唇が白くなるほど噛みしめている。
俺はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
やめろ。笑う場面じゃない。でも、上位ARレイヤーのお嬢様が初めてフリープランの洗礼を受けて、こんなにも純粋に怒っているのが、なんというか眩しかった。俺はとっくに怒る気力もなくしてるのに、こいつはまだ怒れるのか。
「水。顔を洗いたい」
「洗面台は廊下の突き当たり。共同」
リサはドレスの裾を掴んで、廊下に出ていった。背筋だけは相変わらず伸びている。
三十秒後、廊下から声が聞こえた。
「——また広告! 顔洗ってる最中に! 泡がついてるのに!」
知ってる。俺も毎朝それ。顔を洗っている途中で五秒間視界をジャックされる。泡を流すタイミングを完全に逃す。水は止まらないが、目が止まる。
笑った。今度は我慢できなかった。声は出さなかったけど。
二人で外に出た。
東京の朝。表通りには通勤の人波がもう動き始めている。スーツ姿のサラリーマン、制服の学生。誰もニューロ・リンクのことを知らない。二本裏に入れば、AR広告が蠢く別世界があることも。リサはパーカーのフードを被り直して、路面の水たまりを避けながら歩いている。泥だらけのドレスから着替えたカーゴパンツはまだないので、ドレスの裾を片手で持ち上げて。育ちの良さは足元に出る。
闇市場の入口で、ジャンク屋のオヤジが目を丸くした。
「おい、クロヤ。連れがいるじゃねえか。しかも——」オヤジの目がリサの体に点滅する赤い凍結マークを見て、声をひそめた。「BAN者かよ。どっから拾ってきた」
「天井から降ってきた」
「……比喩か?」
「物理的に」
オヤジが笑って、干し肉を二切れ渡してきた。今日は二人分。
「嬢ちゃん、食えるか? 味は保証しねえが」
リサは干し肉を受け取り、三秒ほど見つめてから、一口噛んだ。硬い。表情が動いた。塩辛い。もう一回動いた。
「……硬い」
「硬えだろ。俺の歯じゃもう無理だ」オヤジが歯のない口で笑った。
リサはもう一口噛んだ。今度は小さく頷いた。
「でも、味はある」
「あるだろ! うちの干し肉はスラム一だ」
リサがほんの少しだけ笑った。昨日の裏路地での笑みとは違う、もう少し力の抜けた笑い。
オヤジがリサに食い物を渡す。リサがそれを食べる。ただそれだけの光景だったが、俺は妙な気持ちになった。
ここには何もない。金も権力も快適さもない。視界には広告がちらつくし、寝てる間に脳を搾取される。でも、干し肉をくれるオヤジがいる。賞味期限が切れた肉を分け合うだけの、それだけの人間関係がある。
リサは上位ARレイヤーで何を持っていたのだろう。エンタープライズの契約。異能。家族。名前。全部奪われて、残ったのはフリープランのウォーターマークと、アンダー・ラグの干し肉。
でもこいつは、その干し肉を「味はある」と言った。
巻き戻せ。こいつ、意外と、やっていけるかもしれない。
「オヤジ、着替え。女物。サイズは」リサを見た。「百六十五くらいか。細身。動きやすいやつ」
「ジャンクの山に何かあるだろ。あとで見繕っとく」
「頼む。あと、電源コード。デバイスの充電が死にかけてる」
「コードは三百。着替えはタダでいい」オヤジがリサをちらっと見て、声を落とした。「嬢ちゃん、あんまり目立つなよ。BAN者ってだけで妙な連中に絡まれる。ここは上の連中みたいに安全じゃねえ」
「安全な場所なんて、もうどこにもないわ」
リサは淡々と言った。オヤジが一瞬黙って、それから頷いた。
闇市場を抜けて、アパートに戻る道。リサが聞いた。
「上位ARレイヤーのことを聞きたいんでしょう。契約だから」
「急がない」
「……急がないの?」
「お前がフリープランに慣れるまで待つ。情報は正確じゃなきゃ意味がない。パニック状態で聞き出した情報は使えない」
嘘だ。本当は、今すぐにでも聞きたい。上位ARレイヤーの構造、セキュリティの穴、意思決定のフロー。両親を殺したシステムの中身を。
でも、なんとなく今日じゃない気がした。
リサは俺の顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「……変な人ね」
「無課金のスラム住民をつかまえて、変は失礼だろ」
「そうじゃなくて。あなた、冷たいふりをするのが下手」
俺は何も返せなかった。
視界の右端で、フリープランの透かし文字が薄く光っている。隣を歩くリサの体には、赤い凍結マークがまだ点滅している。
でも今朝、このアンダー・ラグの干し肉を「味はある」と言った人間が隣にいる。
それだけで——少しだけ、朝の空気が軽かった。