ミナミからの連絡は暗号化されたローカルメッセージで届いた。裏東京の共有帯域を経由した、フリープランの低速回線。テキストだけで画像は添付できない。
「来い。見せたいものがある。」
それだけだった。座標が付いていた。裏東京の東端、廃棄された地下鉄の駅舎。ミナミが研究拠点にしている場所だ。
「ミナミって、元オムニバース社の研究員だっけ」
リサが横を歩きながら聞いた。裏東京の夜の路地。ARの広告が二人の視界にちらちらと明滅している。
「元、というか追放だな。異能のシステム——エーテル・システムのナノダスト制御を担当していた技術者だ。内部の不正に気づいて告発しようとして、逆にアカウントをBAN。フリープランにすら接続できない完全追放。それ以来、裏東京の地下で独自に研究を続けてる」
「味方?」
「利害が一致している。おれたちの敵はオムニバース社。ミナミの敵もオムニバース社。敵の敵は——まあ、完全な味方ではないが、使えるリソースだ」
地下鉄の駅舎は、オムニバース社がAR交通システムを導入した際に廃止された旧インフラの残骸だった。改札口の鉄柵は錆びて崩れ、ホームには十年分の埃が積もっている。だがその奥、旧駅長室を改造したミナミの研究室だけは、異質なほど清潔だった。
蛍光灯の白い光。壁一面のモニター。ジャンクパーツで組み上げられたサーバーラック。フリープランのARではなく、物理モニターを使っている。ミナミはAR環境を一切信用していない。すべてがローカル、すべてがオフライン。
「来たか」
ミナミは椅子に座ったまま振り返らなかった。白衣——というより汚れた作業着——の背中が、モニターの光に照らされている。短く切った黒髪。目の下の隈。三十代半ばだが、五十代に見える顔。研究に命を削っている人間の顔だ。
「見せたいものって何だ」
「これだ」
ミナミが椅子を回転させた。背後のメインモニターに、巨大なフローチャートが表示されていた。
オムニバース社の会計データ。
「どこで手に入れた」
「聞くな。ソースを明かせば、そのソースが消される」
おれはフローチャートを見た。数字の羅列。日本円。桁が多すぎて頭が追いつかない。
「使途不明金二百億。リサの証言で、その存在は知ってたろう」
「ああ。エンタープライズの裏帳簿に記載されていた金だ」
「その二百億の流れを追った。結論から言う」
ミナミがキーボードを叩いた。フローチャートの一部分が赤く光った。
「二百億のうち、約八十億が一つのプロジェクトに注ぎ込まれている。コードネーム——『テネシー』」
テネシー。アメリカの州の名前だ。だがおれの知る限り、オムニバース社とテネシー州に接点はない。コードネームは常に無関係な単語が選ばれる。追跡を困難にするために。
「テネシーの目的は」
「全ユーザーの異能パラメータを外部から書き換える技術の開発」
リサが息を呑んだ。おれも一瞬、思考が止まった。処理落ち。すぐに再起動した。
「書き換える——というのは、アップグレードじゃなくて」
「上書きだ。ユーザーの同意なしに、異能の種類、出力、制御パラメータを管理者権限で変更する。現行のシステムでは、異能はユーザーのプラン契約時に生成され、以降は課金額に応じて帯域が増減するだけだ。だがテネシーは違う。帯域の増減ではなく、異能そのものを根本から入れ替える」
「それが可能なのか」
「技術的には——可能になりつつある」
ミナミがモニターを切り替えた。別のデータが表示された。技術文書の断片。おれには半分も読めない専門用語の羅列だが、リサが顔色を変えた。
「これ——エーテル・システムのコアプロトコルに関する文書だわ。エンタープライズにいた頃、似たフォーマットの文書を見たことがある。最高機密レベルの」
「その通りだ。エーテル・システム——大気中に散布されたナノダストが、ニューロ・リンクと連携してユーザーの脳にAR映像と異能を付与する仕組み。テネシーはこのナノダストの制御プロトコルを書き換えて、個別ユーザーの脳への入力信号を変更する研究だ」
おれは壁にもたれかかった。頭の中で情報を整理する。プロセスを一つずつ順番に走らせる。
ナノダストは空気中に存在する。全ユーザーが呼吸するたびに体内に取り込まれる。そのナノダストがニューロ・リンクと連携して異能を発動させる。テネシーはその連携プロトコルを書き換える技術。
つまり——空気を吸っている限り、誰もテネシーから逃れられない。
「これが実装されたら、どうなる」
「オムニバース社が望む通りになる。反体制的なユーザーの異能を無効化。従順なユーザーの異能を強化。あるいは、全ユーザーの異能を均一化して、個性そのものを消す。何でもできる。オペレーティングシステムの管理者権限と同じだ。Root権限がユーザーの脳にまで及ぶ」
「Root権限」
おれはその言葉を噛みしめた。Root。オムニバース社の最高意思決定機関。おれの親父とお袋を殺した命令系統の頂点。
「テネシーの進捗は」
「分からない。データは断片的だ。だが、使途不明金の流れから判断すると、研究開始は三年前。年間二十億以上の予算。この規模で三年。実用化が近い可能性は——高い」
リサがおれを見た。おれもリサを見た。
「クロヤ。これが完成したら」
「ああ。おれの脱獄デバイスも、お前の在庫読みも、全部書き換えられる。ゲームオーバーだ」
ミナミが椅子から立ち上がった。初めておれたちの方を向いた。疲弊した顔。だが目だけは鋭い。研究者の目。真実を追い求める人間の目。
「一つだけ手がかりがある」
「何だ」
「テネシーの関連データが、裏マーケットに流出している形跡がある。内部の誰かがデータを持ち出して、闇オークションで売っている。二日後の夜、上位レイヤーの裏オークションで、テネシー関連の出品があるという情報を掴んだ」
「闇オークション——上位レイヤーの」
「そうだ。プレミアム以上のユーザーしかアクセスできない。入場には信用証明が必要だ。フリープランの人間が入り込むのは——」
「不可能じゃない」
おれはデバイスを取り出した。指が画面を滑る。偽装パッチのコードが頭の中で組み上がっていく。
「以前ミナミが作ってくれた偽装プレミアムパッチがある。あれをベースにカスタマイズすれば、信用証明の偽造も不可能じゃない。問題は時間だ。二日——四十八時間。処理速度を上げる必要がある」
「やるの?」
リサの声。不安と期待が混ざっている。
「やる。テネシーの情報が市場に出るなら、買い叩く。金がなくても、詐欺UIがある。おれの得意分野だろ」
ミナミが座標データをおれのデバイスに転送した。オークションの場所と時間。暗号化された入場プロトコル。
「気をつけろ。上位レイヤーの裏オークションには、モデレーターの密偵がいる。見つかれば——」
「アカウント永久停止。知ってる」
おれはミナミの研究室を出た。リサが隣を歩く。地下鉄の廃ホームを通り抜け、裏東京の夜の路地に出る。
視界にポップアップ広告。今日のおすすめはセキュリティソフト。月額四百九十八円。皮肉だな。おれたちが今から破ろうとしているのは、世界最大のセキュリティシステムだ。四百九十八円じゃ全然足りない。
「クロヤ」
「何だ」
「テネシーが完成する前に、止められる?」
「分からない。だが——情報がなきゃ始まらない。まずはオークションだ」
四十八時間。おれの脳のCPUクロックを限界まで上げて、偽装コードを書く。リサには入場後の交渉シナリオを組み立てさせる。在庫読みの実戦投入。昨日教えたばかりの技術を、いきなり本番で使う。
無茶だ。だが無茶を通すのが、フリープランの生存戦略だ。