人を騙す技術を教えるのは、プログラミングを教えるのとは根本的に違う。
コードには正解がある。コンパイラがエラーを吐けば間違いで、通れば正しい。だが人間を騙す技術には正解がない。相手の数だけ正解がある。相手が変われば手法も変わる。固定のアルゴリズムでは対応できない。
「基本は三つだ」
おれは裏東京の廃ビルの一室で、リサに向かって指を三本立てた。壁にはおれが即席で作ったAR投影のスライドが浮かんでいる。フリープランの低解像度ARだから、文字がところどころ潰れている。
「一つ目。相手が見たいものを見せる。二つ目。相手が恐れているものを匂わせる。三つ目。判断する時間を与えない。この三つを組み合わせれば、大抵の人間は動く」
リサがメモを取っていた。メモといっても紙はない。裏東京ではノートは贅沢品だ。リサは自分のデバイスの空きメモリに、テキストファイルとして書き込んでいる。
「でも、それだけじゃ詐欺UIは作れないでしょ」
「そうだ。詐欺UIの核心は『本物に見せる技術』だ。ボタンの位置、フォントの種類、色の配分。人間の視線は左上から右下に流れる。重要な情報は左上に、押させたいボタンは右下に置く。色はオムニバース社の公式テーマに合わせる。緑は安心、赤は警告。心理学をピクセル単位でUIに落とし込む」
「ダークパターンだ」
「呼び方は何でもいい。おれたちは善人じゃないし、善人のふりもしない。ただ——相手を選べ。弱い人間を騙すな。騙していいのはシステムと、システムに守られている強い人間だけだ」
リサが顔を上げた。青い目がおれを見た。
「それ、あなたのルール?」
「おれの規約だ。開発者倫理とでも呼んでくれ」
リサが笑った。小さく。昨日のぎこちなさが少し薄れている。バージョン1.1の関係が、少しずつ安定稼働に近づいている。
「じゃあ実践だ。お前の能力を使う」
「在庫を読む、のこと?」
「そうだ。お前は交渉相手の持ち物——物理的なものだけじゃなくて、情報、立場、選択肢を直感的に把握できる。ジャンク屋のオヤジとの交渉で見せたあれだ。あの能力をソーシャルエンジニアリングに転用する」
おれはデバイスを操作して、ARに一つの顔写真を表示した。裏東京の顔写真データベースから引っ張ってきた、適当な中年男性の顔だ。
「想定ターゲット。スタンダードプランのサラリーマン。月額九千八百円を払って、そこそこの異能と広告軽減を享受している。このターゲットに、偽のアップグレード通知を信じさせたい。お前ならどうする」
リサが写真を見た。五秒。十秒。目が細くなった。
「この人の在庫は——安定。月額課金を払い続けるだけの収入がある。でも余裕はない。アップグレードしたいけど、プレミアムの月額二万九千八百円には手が届かない。そういう人」
「根拠は」
「顔じゃなくて、スタンダードプランの人口統計。月収三十万前後、家賃十万、課金九千八百円。手取りの三パーセント以上を異能に使ってる。これ以上は出せないけど、もっと欲しいと思ってる層」
おれは感心した。隠さなかった。
「いいぞ。マクロデータからターゲットのプロファイルを組み立てられるのは才能だ。おれはどちらかというと個人の癖を観察するタイプだが、お前は統計から入る。アプローチが違う」
「それで、この人にどうやって偽通知を信じさせるかだけど」
リサが指で空中にUIの骨組みを描いた。ARの簡易描画ツール。フリープランだから線がガタガタだが、構成は分かる。
「まず見せるのは『期間限定アップグレードキャンペーン』。プレミアムが一ヶ月だけ月額一万四千九百円——通常の半額。これが欲望に刺さる。次に、画面の下に小さく『残り枠:3名』。希少性の演出。最後に、カウントダウンタイマーを置く。残り二分三十秒。判断する時間を奪う」
「三つの原則を全部使ったな」
「先生の教えどおりです」
「先生って呼ぶな。気持ち悪い」
リサが本当に笑った。声を出して。ここ数日で初めての、声のある笑い。
「でも足りない」
おれはリサのUIデザインを指さした。
「配色だ。このボタン、オムニバース社の公式UIでは緑は『確定』、青は『詳細を見る』、グレーは『後で』に割り当てられている。お前のデザインだと確定ボタンが青になってる。スタンダードプランのユーザーは毎月課金画面を見てるから、色の違和感に気づく。潜在意識レベルで『何か変だ』と感じる。それが致命的になる」
リサの目が真剣になった。メモしている。
「色だけでそこまで変わる?」
「変わる。人間の脳は文字を読む前に色を処理する。色が正しければ、文字が多少おかしくても通る。色が間違っていれば、完璧な文章でも疑われる。おれたちの戦場はピクセルだ。一ピクセルのずれが生死を分ける」
リサが修正した。緑に変えた。画面全体のバランスが変わった。今度は——本物に見える。
「いいな。これなら七割のターゲットは引っかかる」
「七割じゃ足りない?」
「十分だ。百パーセントを狙うな。百パーセントは罠の匂いがする。七割引っかかって、三割が『怪しい』と思う。その三割の反応も計算に入れろ。三割が通報する前に画面を消せる仕掛けを入れておけ。タイマーが切れたら自動的にUIが消えて、何事もなかったかのように通常画面に戻る」
「証拠隠滅まで含めてUIデザインなの」
「当然だ。ログを残すUIは三流だ。おれの作る画面は、表示された瞬間に自分のキャッシュを書き換えて、ブラウザ履歴にも残らない。幽霊みたいなもんだ。見た人間の記憶にだけ残る」
リサが深く息を吸った。吐いた。
「すごい。怖いけど、すごい」
「怖がれるのは正常だ。この技術に慣れすぎたら、人間として終わる。怖がりながら使え。それがおれの二つ目の規約だ」
リサがおれを見た。しばらく見た。何かを探すような目。
「クロヤ。あなたは自分でも怖い?」
「毎回怖い。慣れてないだけかもしれないが」
嘘だ。半分は。怖くない日もある。だがリサには怖いと言っておいた方がいい。師匠が恐怖を忘れた姿を見せたら、弟子も恐怖を忘れる。それは——おれが望む結果じゃない。
「じゃあ次の課題だ」
おれは新しいARスライドを表示した。
「実戦形式。おれがターゲット役をやる。お前がおれを騙してみろ。使える道具はお前のデバイスとAR描画ツールだけだ。制限時間は一分。始め」
リサの目が変わった。交渉のときの目だ。在庫を読む目。おれという人間の、持ち物と弱点と盲点を計算する目。
おれはその目を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
才能がある。間違いなく。
おれが教えなければ花開かなかったかもしれない才能が、今、開き始めている。
四十五秒後、おれは自分のデバイスの画面に表示された偽のシステム警告に、思わず指を伸ばしかけていた。
「——今のは」
「あなたの在庫を読んだの。クロヤの最大の弱点は、システムの異常に対する反射的な対応速度。異常を見たら確認せずにはいられない。だから偽のカーネルパニックを表示した」
おれは口を閉じた。三秒。
「合格だ」
リサが笑った。誇らしげに。
師弟関係の初日。弟子がこの調子なら、師匠の座はそう長くは持たないかもしれない。
それは——悪い予感ではなかった。