カガミのオフィスの空気が、プレミアムエリアの空調とは別の意味で冷えていた。
「説明しろ、カガミ」
おれの声は平坦だった。怒っているのか困惑しているのか、自分でも分からなかった。処理が追いつかない。脳のキャッシュがオーバーフローしかけている。
「リサに聞いた方がいいんじゃない?」
「リサは黙ってる。お前が話せ」
カガミが椅子の背もたれに体を預けた。眼鏡の奥の目がおれとリサを交互に見た。
「いいよ。情報屋だからね。リサ、いい?」
リサが頷いた。小さく。顔は白いままだ。
「一年半前。リサはエンタープライズの最上位プランにいた。家がオムニバース社の主要投資家だったからね。異能帯域は実質無制限。AR視界は最高画質。広告はもちろんゼロ。エンタープライズの中でもトップクラスの待遇だった」
知ってる。裏東京の噂で聞いた範囲だが、だいたい合ってる。
「で、リサはその権限を使って、システムの内部データにアクセスした。エンタープライズはシステムの一部の管理権限を持ってるから、監査ログとか、リソース配分とか、見れるデータがある。そこでリサは、生体ボットネットの仕様書を見つけた」
おれはリサを見た。リサは窓の外を見ていた。プレミアムエリアの夜景。AR上の光が美しく整列している。
「仕様書に書いてあったのは、フリープランユーザーの脳演算リソースを商用利用する計画。演算負荷によるユーザーへの影響、つまり寿命の短縮も明記されていた。リスク項目として」
「リスク項目として。つまり知ってて実装した」
「仕様だからね。バグじゃない」
カガミの声が乾いている。情報屋の声だ。感情を挟まずに事実を並べる。
「リサはその仕様書を見て、オムニバース社の上層部に抗議した。直接。エンタープライズの権限を使って」
「抗議した。それで?」
「無視された。当然だけど。リサの家が投資家でも、仕様を変えるのはRootの権限だ。Rootは合議体だから、個人の抗議では動かない」
「で、リサはどうしたんだ」
カガミがリサを見た。リサは窓から目を離さなかった。
「リサは——自分から規約違反を申告した」
おれの手が止まった。右耳の後ろに伸びかけていた手が、空中で。
「自分から?」
「そう。Root直轄に対して、『私のアカウントはエンタープライズの規約第三百四十七条に違反している。即時凍結を要求する』って。自分で凍結申請を出した」
巻き戻せ。
リサは——被害者ではなかった。
おれはずっと、リサが陰謀で凍結されたと思っていた。エンタープライズの権力闘争か、不正を告発して口封じされたか。だから契約した。「凍結を解除する」「陥れた人間を見つける」。それが契約の根幹だった。
だがリサは自分から凍結を選んだ。
「なぜだ」
カガミに聞いた。カガミは首を振った。
「それはリサに聞いて」
リサが窓から振り返った。おれを見た。青い瞳。凍結ウォーターマークの赤い光が、偽装パッチで消えている今でも、おれにはまだ見えるような気がした。
「生体ボットネットの負荷は、エンタープライズには適用されない」
リサの声は小さかった。
「エンタープライズは課金額が大きいから、脳演算リソースの搾取対象から除外されてる。私がエンタープライズにいる限り、寿命は削られない。安全。でもフリープランの人たちは毎日削られてる。百二十万人」
「だからって、自分を凍結する理由になるか?」
「ならないよ。合理的じゃない。あなたが言うとおり。でも」
リサの声が詰まった。三秒。
「仕様書を読んだ夜、眠れなかった。次の朝、窓の外を見たら、表通りを歩いてるフリープランの人たちが見えた。エンタープライズの視界ではフィルタリングされて見えないはずなのに、その日だけ見えた。設定を変えたのか、バグなのか分からない。でも見えた。灰色のウォーターマークをつけた人たちが、朝の通りを歩いてた」
リサが目を閉じた。
「私は安全な場所にいて、その人たちは毎晩寿命を削られている。同じ東京の同じ通りを歩いているのに。私がエンタープライズにいる限り、私はその仕組みの受益者なの。受益者が抗議しても、誰も聞かない。受益者が声を上げても、システムは変わらない」
「だから」
「だから凍結された。自分から。凍結されればシステムから完全に切り離される。受益者じゃなくなる。受益者じゃない場所に落ちれば——声に意味が出る」
おれは黙った。
リサの論理は分かる。処理できる。受益者の抗議には力がない。当事者になって初めて声に重さが出る。
だが。
「お前、それを最初から俺に言わなかった」
「言えなかった」
「なぜだ」
「あなたは、両親を殺された側の人間だから。フリープランの被害者。私はエンタープライズの元受益者。あなたの両親が死んだ仕組みの恩恵を受けていた人間。それを言ったら」
「契約が成り立たなかっただろうな」
おれの声が冷たくなった。分かった。処理が終わった。
リサは最初から嘘をついていた。嘘ではない。だが真実の一部を隠していた。「凍結された令嬢」という被害者の姿で契約を結び、俺の技術を利用した。
利規違反だ。
「クロヤ」
「黙れ。処理中だ」
おれはカガミのオフィスの壁に背中をもたせかけた。千二百円のコーヒーの苦味が舌の奥に残っている。
契約。利用規約。
第3条: 乙は甲に対し、旧所属階層に関する情報を誠実に開示する
誠実に開示。リサは自分の凍結の経緯を隠していた。誠実な開示ではない。契約違反。
だが。
巻き戻せ。
リサは逃げたのか。逃げたんだろう。安全な場所から、自分で落ちた。それは逃避なのか。覚悟なのか。
おれの親父とお袋は、逃げる選択肢すらなかった。フリープランに落とされて、三ヶ月で死んだ。リサは自分でフリープランに落ちた。落ちることを選んだ。
同じフリープランでも、意味が違う。
「カガミ。もう一つ聞く」
「何?」
「リサが凍結を申請した後、Rootが追ってきた理由は」
「リサが仕様書のコピーを持っていたから。凍結されてシステムから切り離されても、リサの頭の中にはエンタープライズ級のデータがある。それが外に漏れることを、Rootは許容できなかった」
つまりリサは情報を持って逃げた。逃げた先がアンダー・ラグで、追っ手がガシマで、モデレーターで、Root直轄で。
リサは被害者ではない。だが加害者でもない。逃亡者だ。
おれは壁から背中を離した。リサを見た。リサがおれを見ていた。
「クロヤ。契約を——破棄する?」
「利規違反だ。第3条に違反してる」
「分かってる」
「分かってるなら」
おれはデバイスを取り出した。契約の文面を画面に表示した。
利用規約 第1条〜第5条
おれは第6条を書き加えた。
第6条: 過去の秘匿は契約違反としない。ただし、今後の隠し事は禁止する
リサの目が画面を読んだ。読んで、目が潤んだ。泣きそうな顔。だが泣かなかった。
「これは」
「規約のアップデートだ。バージョン1.1。過去のバグは修正対象外。今後のバグだけ追跡する。ソフトウェア開発の基本だろ」
リサが笑った。泣きそうなまま笑った。
「仕様ですか、それ」
「仕様だ。おれが書いた規約だから、おれが書き換える権利がある。Rootと違って、おれの規約は一人で決められる」
カガミが窓の外を見ていた。情報屋の目が、一瞬だけ、情報屋じゃない何かの目になっていた。
「二人とも、面白いね」
「うるせえ」
おれはデバイスをしまった。コーヒーの残りを飲み干した。千二百円分の苦味。高い。だが、今日は高くなかった。
リサが隣に立った。
「逃げたよ。私は」
「知ってる。で、戻ろうとしてるんだろ」
「戻ろうとしてる。でも、一人じゃ戻れなかった」
「一人じゃなくなっただろ。利用規約に二人分の名前がある」
リサが頷いた。
おれたちはカガミのオフィスを出た。プレミアムエリアの夜。ARの光が美しい。おれたちの偽装バッジが金色に光っている。偽物の金持ち二人。
だが契約は本物だ。バージョン1.1の。
裏東京に帰る道で、おれは考えていた。
親父とお袋を殺したシステム。リサはそのシステムの受益者だった。受益者が受益を捨てて、当事者になるために落ちてきた。
恨むべきか。
分からない。分からないけど——おれの横にいるのは、この人しかいない。
視界の右端に、フリープランの灰色のウォーターマークが戻ってきた。偽装パッチのエリアを出たからだ。
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いつもの灰色。いつもの鎖。
だが今は、隣に同じ鎖をつけた人間がいる。自分で選んでつけた人間が。