上位レイヤーのカフェでブラックのコーヒーを頼んだら千二百円だった。砂糖もミルクもなし、ただの豆を挽いて湯を通しただけの液体に千二百円。おれの全財産の三分の一以上が一杯のコーヒーに消えた。
「仕様ですか、これ」
「プレミアムエリアの物価よ」リサが自分のカップ、カフェラテ千四百円、を持ち上げた。「エンタープライズにいた頃は気にしたこともなかった」
「じゃあ仕様だな。バグなら直せるけど、仕様は変えられない」
「分かってる。書き換えるしかない」
カフェの中を観察した。客は全員プレミアムかビジネスプランのバッジをつけている。服装が違う。裏東京とは素材が違う。布の光沢。靴の形。時計。全部が「金を持っている」と主張している。
だが一番違うのは、目だ。
裏東京の人間は周囲を警戒する目をしている。いつ広告に視界を奪われるか、いつモデレーターが来るか。上位レイヤーの人間は、何も警戒していない。安全が保証されている世界の住人の目。ログアウトした目、とでも言えばいいのか。いや、ログアウトではない。ログインしたまま、何も起きない安全な世界に没入している目だ。
そしてもう一つ。
マウントが飛び交っている。
隣のテーブル。ビジネスプランの男性二人。
「今月のプラン更新で、飛行高度の上限が上がったんだ。ビジネスゴールドに上がったらね。もう三百メートルまで飛べる」
「マジ? 俺まだシルバーだから百五十までだよ。ゴールドいくらだっけ」
「月額四万九千八百円」
「高。でもまあ、付き合い上、上げないとね」
付き合い上。課金額がステータスシンボルになっている世界。月額四万九千八百円を「付き合い上」払う人間がいる一方で、おれたちは干し肉で朝飯を済ませている。
脳が2ミリ秒で計算した。四万九千八百円あれば、裏東京の干し肉が約千本買える。千本。二年半分の朝飯。
リサがカフェの窓の外を見ていた。ビジネスエリアのオフィスビル。ガラス張りの壁面にAR表示が流れている。株価、為替、ニュース。表社会のビジネスと裏のSaaS経済が、同じビルの中に重なっている。
「カガミはこのビルの二十三階」
「何をしてるやつだ」
「エンタープライズの情報ブローカー。上位レイヤーのユーザー間で情報を売買している。合法すれすれ」
「すれすれってことは違法の可能性もある」
「そこがカガミの強み。グレーゾーンに住んでる人間は、どっち側にも裏切れる」
ビルに入った。エントランスの自動ドアが開くと、涼しい空気とARの案内表示が視界に浮かんだ。フロアガイド。テナント一覧。全てがスマートに整理されている。
エレベーターで二十三階。廊下は静か。カーペットが足音を吸収する。裏東京の廃ビルとは別世界だ。
部屋のドアの前で、リサが立ち止まった。
「カガミ。三年ぶり」
「久しぶり、リサ。生きてたんだ」
ドアが開いた。中から声がした。カガミ。二十代後半に見える男。細身。眼鏡。指が長い。キーボード向きの手だ。
「入って。——そっちの子は?」
「クロヤ。パートナー」
「パートナー。ビジネスの?」
「利用規約上の」
カガミがおれを見た。三秒。値踏みしている。情報ブローカーの目だ。相手の価値を金額で測る目。
「フリープランか。偽装してるけど、分かるよ。動きが違う。プレミアムの人間は視線が安定してる。フリープランは広告が来るたびに微かに身構える。癖が抜けてない」
バレた。2ミリ秒で判断した。否定しても無駄だ。
「バレるの早いな」
「情報屋の基本スキル。で、何の用?」
リサが話した。ガシマの撃破。端末から得たデータ。Root直轄階層からの凍結命令。
カガミは聞きながら、デスクの上のモニターで何かを検索していた。
「Root直轄か。そこまで上がってるんだ、あんたの案件」
「カガミ。何か知ってる?」
「知ってるよ。——リサ、あんたの凍結について。俺は知ってる」
部屋の空気が変わった。リサの肩が微かに硬くなった。
「何を」
「全部。あんたが凍結された理由。なぜRoot直轄が動いたか。——そして、あんたが自分から凍結を選んだことも」
おれは振り返った。リサを見た。リサの顔が、白かった。
「リサ。——自分から凍結を選んだ、って何だ」
リサは答えなかった。
カガミがモニターから目を離して、おれたちを見た。情報ブローカーの目から、一瞬だけ、人間の目が覗いた。
「ああ。彼には言ってなかったんだ」
リサが唇を噛んだ。おれは右耳の後ろに手が伸びるのを感じた。
何かが——今、壊れかけている。