小説置き場

第24話「プレミアムの虚飾」

1,809文字 約4分

上位レイヤーのカフェでブラックのコーヒーを頼んだら千二百円だった。砂糖もミルクもなし、ただの豆を挽いて湯を通しただけの液体に千二百円。おれの全財産の三分の一以上が一杯のコーヒーに消えた。

「仕様ですか、これ」

「プレミアムエリアの物価よ」リサが自分のカップ、カフェラテ千四百円、を持ち上げた。「エンタープライズにいた頃は気にしたこともなかった」

「じゃあ仕様だな。バグなら直せるけど、仕様は変えられない」

「分かってる。書き換えるしかない」

 カフェの中を観察した。客は全員プレミアムかビジネスプランのバッジをつけている。服装が違う。裏東京とは素材が違う。布の光沢。靴の形。時計。全部が「金を持っている」と主張している。

 だが一番違うのは、目だ。

 裏東京の人間は周囲を警戒する目をしている。いつ広告に視界を奪われるか、いつモデレーターが来るか。上位レイヤーの人間は、何も警戒していない。安全が保証されている世界の住人の目。ログアウトした目、とでも言えばいいのか。いや、ログアウトではない。ログインしたまま、何も起きない安全な世界に没入している目だ。

 そしてもう一つ。

 マウントが飛び交っている。

 隣のテーブル。ビジネスプランの男性二人。

「今月のプラン更新で、飛行高度の上限が上がったんだ。ビジネスゴールドに上がったらね。もう三百メートルまで飛べる」

「マジ? 俺まだシルバーだから百五十までだよ。ゴールドいくらだっけ」

「月額四万九千八百円」

「高。でもまあ、付き合い上、上げないとね」

 付き合い上。課金額がステータスシンボルになっている世界。月額四万九千八百円を「付き合い上」払う人間がいる一方で、おれたちは干し肉で朝飯を済ませている。

 脳が2ミリ秒で計算した。四万九千八百円あれば、裏東京の干し肉が約千本買える。千本。二年半分の朝飯。

 リサがカフェの窓の外を見ていた。ビジネスエリアのオフィスビル。ガラス張りの壁面にAR表示が流れている。株価、為替、ニュース。表社会のビジネスと裏のSaaS経済が、同じビルの中に重なっている。

「カガミはこのビルの二十三階」

「何をしてるやつだ」

「エンタープライズの情報ブローカー。上位レイヤーのユーザー間で情報を売買している。合法すれすれ」

「すれすれってことは違法の可能性もある」

「そこがカガミの強み。グレーゾーンに住んでる人間は、どっち側にも裏切れる」

 ビルに入った。エントランスの自動ドアが開くと、涼しい空気とARの案内表示が視界に浮かんだ。フロアガイド。テナント一覧。全てがスマートに整理されている。

 エレベーターで二十三階。廊下は静か。カーペットが足音を吸収する。裏東京の廃ビルとは別世界だ。

 部屋のドアの前で、リサが立ち止まった。

「カガミ。三年ぶり」

「久しぶり、リサ。生きてたんだ」

 ドアが開いた。中から声がした。カガミ。二十代後半に見える男。細身。眼鏡。指が長い。キーボード向きの手だ。

「入って。——そっちの子は?」

「クロヤ。パートナー」

「パートナー。ビジネスの?」

「利用規約上の」

 カガミがおれを見た。三秒。値踏みしている。情報ブローカーの目だ。相手の価値を金額で測る目。

「フリープランか。偽装してるけど、分かるよ。動きが違う。プレミアムの人間は視線が安定してる。フリープランは広告が来るたびに微かに身構える。癖が抜けてない」

 バレた。2ミリ秒で判断した。否定しても無駄だ。

「バレるの早いな」

「情報屋の基本スキル。で、何の用?」

 リサが話した。ガシマの撃破。端末から得たデータ。Root直轄階層からの凍結命令。

 カガミは聞きながら、デスクの上のモニターで何かを検索していた。

「Root直轄か。そこまで上がってるんだ、あんたの案件」

「カガミ。何か知ってる?」

「知ってるよ。——リサ、あんたの凍結について。俺は知ってる」

 部屋の空気が変わった。リサの肩が微かに硬くなった。

「何を」

「全部。あんたが凍結された理由。なぜRoot直轄が動いたか。——そして、あんたが自分から凍結を選んだことも」

 おれは振り返った。リサを見た。リサの顔が、白かった。

「リサ。——自分から凍結を選んだ、って何だ」

 リサは答えなかった。

 カガミがモニターから目を離して、おれたちを見た。情報ブローカーの目から、一瞬だけ、人間の目が覗いた。

「ああ。彼には言ってなかったんだ」

 リサが唇を噛んだ。おれは右耳の後ろに手が伸びるのを感じた。

 何かが——今、壊れかけている。