小説置き場

第23話「偽装プレミアム」

1,981文字 約4分

偽物の金持ちになるのに必要なものは、金ではなくコードだった。

 ミナミが用意したパッチは小さなプログラムで、ニューロ・リンクのアカウント情報表示を書き換える。実際のプランは変わらない。フリープランのまま。広告も来る。生体ボットネットの負荷も消えない。ただ、他のユーザーのAR上に表示されるステータスだけが「Premium」に変わる。

 表示詐欺だ。おれの得意分野なわけだが、自分にかけるのは初めてだった。

「いくぞ」

 リサが隣にいた。リサのアカウント表示も偽装済み。赤い凍結マークが消えて、代わりに金色のプレミアムバッジが点灯している。偽物だが、見た目は本物と区別がつかない。

 新宿三丁目。表通り。ここからは上位ARレイヤーの管轄エリアだ。

 おれは一歩踏み出した。

 世界が変わった。

 同じ交差点。同じビル。同じアスファルト。だがニューロ・リンク越しのAR表示が、全く違った。

 灰色のウォーターマークが消えている。「Omniverse Free」の透かし文字。生まれてからずっと視界の右端に浮かんでいた灰色の呪い。それが見えない。偽装パッチがフリープラン表示を非表示にしている。

 代わりに。

 ビルの壁面に映っていたAR広告が、広告ではなくなっていた。美しいアート作品に変わっている。プレミアムプランでは広告枠がアートギャラリーになるのだ。桜の花が壁一面に咲いている。スズメが飛んでいる。どこかの画家が描いた作品が、AR上で再現されている。

 路面。フリープランの視界ではデータの残骸が光の粒子になって漂っていた。プレミアムの視界では、残骸が消えている。路面は清潔で、ARのナビゲーション表示がスマートに浮かんでいる。行き先、距離、推定時間。全てが洗練されている。

 人。通行人がプレミアムバッジをつけている。全員。この通りにフリープランのユーザーはいない。いるのだが、表示上は見えない。フリープランのユーザーは上位レイヤーの視界ではフィルタリングされて非表示になる。おれたちが偽装していなければ、ここを歩いていても誰にも見えていない。

 広告がない。

 広告がない。五秒間のスキップ不可動画がない。顔を洗っている最中に視界をジャックされない。飯を食っている最中に白い歯のモデルを見せられない。

 静かだ。

 おれの視界が、こんなに静かだったことは一度もない。

「クロヤ」

 リサの声が聞こえた。振り返った。リサが立ち止まっていた。

「どうした」

「これが——私が、当たり前だと思っていた世界」

 リサの目が、通りの風景を見ていた。ARアートのビル。清潔な路面。プレミアムバッジの通行人。

「凍結される前は、これが普通だった。広告がないのが普通。ラグがないのが普通。道を歩いていて、誰からも見えているのが普通」

 リサの声が少し震えていた。

「でもね、クロヤ」

「何だ」

「今、この世界に戻ってきて。偽装で。嘘のバッジをつけて。それで分かった。この世界は——きれいすぎる」

「きれい?」

「きれいすぎて、何も見えない。フリープランの人たちが見えない。裏東京のオヤジが見えない。干し肉の味がしない。全部フィルタリングされてる。美しいフィルター。安全なフィルター。でもフィルターの向こう側で——百二十万人が寿命を削られてる」

 おれはリサを見た。銀髪がAR上の桜の光を反射している。偽のプレミアムバッジが金色に光っている。元エンタープライズの令嬢が、偽物の金持ちとして、かつての自分の世界に戻ってきた。

「仕様ですか? それとも——バグですか?」

 リサが聞いた。おれに。

「仕様だよ。バグなら直せる。仕様は——作った人間が意図してそう設計した」

「じゃあ、仕様を書き換えないとね」

 リサが歩き出した。おれも歩いた。

 上位レイヤーの通りを歩いた。偽物の金持ちとして。偽物のバッジをつけて。偽物のきれいな世界を。

 五秒ごとに来ていた広告が来ない。視界が静かだ。処理速度が上がる。広告を無視するためのCPUリソースが空いて、思考に回る。これがプレミアムプランの本当の価値だ。金を払って広告を消しているのではない。金を払って、思考する自由を買っている。

 思考する自由に月額九千八百円。

 おれは無課金だから、その自由がない。だが今日だけは、偽物の自由を手に入れた。

 この自由がなくなる前に。やることがある。

 目的地は新宿のビジネスエリアだ。リサの旧知の人物、カガミに会う。カガミはリサの凍結後も上位レイヤーで生き延びている人間だ。リサの過去と、凍結の真実に、最も近い場所にいる。

「カガミは信用できるのか」

「信用は分からない。でも利害は一致してる」

「利害が一致してるだけの人間を信用するのは危ういだろ」

「利規違反?」

 おれは一瞬黙った。利規違反。おれの造語をリサが使った。

「覚えたな。その言い回し」

「環境に適応するのは、仕様ですから」

 リサが微かに笑った。偽装バッジの金色が、笑顔に反射していた。