偽物の金持ちになるのに必要なものは、金ではなくコードだった。
ミナミが用意したパッチは小さなプログラムで、ニューロ・リンクのアカウント情報表示を書き換える。実際のプランは変わらない。フリープランのまま。広告も来る。生体ボットネットの負荷も消えない。ただ、他のユーザーのAR上に表示されるステータスだけが「Premium」に変わる。
表示詐欺だ。おれの得意分野なわけだが、自分にかけるのは初めてだった。
「いくぞ」
リサが隣にいた。リサのアカウント表示も偽装済み。赤い凍結マークが消えて、代わりに金色のプレミアムバッジが点灯している。偽物だが、見た目は本物と区別がつかない。
新宿三丁目。表通り。ここからは上位ARレイヤーの管轄エリアだ。
おれは一歩踏み出した。
世界が変わった。
同じ交差点。同じビル。同じアスファルト。だがニューロ・リンク越しのAR表示が、全く違った。
灰色のウォーターマークが消えている。「Omniverse Free」の透かし文字。生まれてからずっと視界の右端に浮かんでいた灰色の呪い。それが見えない。偽装パッチがフリープラン表示を非表示にしている。
代わりに。
ビルの壁面に映っていたAR広告が、広告ではなくなっていた。美しいアート作品に変わっている。プレミアムプランでは広告枠がアートギャラリーになるのだ。桜の花が壁一面に咲いている。スズメが飛んでいる。どこかの画家が描いた作品が、AR上で再現されている。
路面。フリープランの視界ではデータの残骸が光の粒子になって漂っていた。プレミアムの視界では、残骸が消えている。路面は清潔で、ARのナビゲーション表示がスマートに浮かんでいる。行き先、距離、推定時間。全てが洗練されている。
人。通行人がプレミアムバッジをつけている。全員。この通りにフリープランのユーザーはいない。いるのだが、表示上は見えない。フリープランのユーザーは上位レイヤーの視界ではフィルタリングされて非表示になる。おれたちが偽装していなければ、ここを歩いていても誰にも見えていない。
広告がない。
広告がない。五秒間のスキップ不可動画がない。顔を洗っている最中に視界をジャックされない。飯を食っている最中に白い歯のモデルを見せられない。
静かだ。
おれの視界が、こんなに静かだったことは一度もない。
「クロヤ」
リサの声が聞こえた。振り返った。リサが立ち止まっていた。
「どうした」
「これが——私が、当たり前だと思っていた世界」
リサの目が、通りの風景を見ていた。ARアートのビル。清潔な路面。プレミアムバッジの通行人。
「凍結される前は、これが普通だった。広告がないのが普通。ラグがないのが普通。道を歩いていて、誰からも見えているのが普通」
リサの声が少し震えていた。
「でもね、クロヤ」
「何だ」
「今、この世界に戻ってきて。偽装で。嘘のバッジをつけて。それで分かった。この世界は——きれいすぎる」
「きれい?」
「きれいすぎて、何も見えない。フリープランの人たちが見えない。裏東京のオヤジが見えない。干し肉の味がしない。全部フィルタリングされてる。美しいフィルター。安全なフィルター。でもフィルターの向こう側で——百二十万人が寿命を削られてる」
おれはリサを見た。銀髪がAR上の桜の光を反射している。偽のプレミアムバッジが金色に光っている。元エンタープライズの令嬢が、偽物の金持ちとして、かつての自分の世界に戻ってきた。
「仕様ですか? それとも——バグですか?」
リサが聞いた。おれに。
「仕様だよ。バグなら直せる。仕様は——作った人間が意図してそう設計した」
「じゃあ、仕様を書き換えないとね」
リサが歩き出した。おれも歩いた。
上位レイヤーの通りを歩いた。偽物の金持ちとして。偽物のバッジをつけて。偽物のきれいな世界を。
五秒ごとに来ていた広告が来ない。視界が静かだ。処理速度が上がる。広告を無視するためのCPUリソースが空いて、思考に回る。これがプレミアムプランの本当の価値だ。金を払って広告を消しているのではない。金を払って、思考する自由を買っている。
思考する自由に月額九千八百円。
おれは無課金だから、その自由がない。だが今日だけは、偽物の自由を手に入れた。
この自由がなくなる前に。やることがある。
目的地は新宿のビジネスエリアだ。リサの旧知の人物、カガミに会う。カガミはリサの凍結後も上位レイヤーで生き延びている人間だ。リサの過去と、凍結の真実に、最も近い場所にいる。
「カガミは信用できるのか」
「信用は分からない。でも利害は一致してる」
「利害が一致してるだけの人間を信用するのは危ういだろ」
「利規違反?」
おれは一瞬黙った。利規違反。おれの造語をリサが使った。
「覚えたな。その言い回し」
「環境に適応するのは、仕様ですから」
リサが微かに笑った。偽装バッジの金色が、笑顔に反射していた。