裏東京に名前が広まるのは、おれにとっていいことなのか悪いことなのか、脳の処理速度では判定しきれない案件だった。
ガシマを倒した――エリアマネージャーを無課金が倒したという噂は三日で裏東京の隅まで広まった。闇市場のオヤジが「お前、有名人じゃねえか」と笑い、無許可クリニックの医者が「あんた保険ないでしょ、今度タダで診てやるよ」と言い、路地裏のカフェの女が「コーヒー奢るわ」と手招きした。
全部断った。有名になるのは好きじゃない。有名になると、フードを被って歩けなくなる。
だが一人だけ、断れない相手が現れた。
裏東京の東端。廃工場の屋上。呼び出されて来てみたら、五十代くらいの女性が折りたたみ椅子に座っていた。白髪交じりのショートカット。眼鏡。白衣じゃないのにラボのにおいがする人間がいるとしたら、この人だ。
「クロヤくん。座って」
もう一脚、椅子が用意されていた。座った。
「ミナミです。元オムニバース社の開発部門にいた」
右耳の後ろに手が伸びた。癖だ。元オムニバース社。開発部門。つまりこのシステムを作った側の人間。
「辞めたんですか。それとも追い出されたんですか」
「鋭いね。追い出された。正確には、自分から辞めたけど、辞めざるを得ない状況に追い込まれた。よくある話よ」
「何を作ってたんですか」
「エーテル・システム。ナノダストの制御プロトコル。ニューロ・リンクの基盤技術。全部、私のチームが設計した」
脳のキャッシュが追いつかない。目の前の五十代の女性が、このシステムの設計者。俺が毎朝見る広告も、毎晩吸い取られる脳演算も、元を辿ればこの人の手から生まれた。
「で、辞めた理由は」
「生体ボットネットの計画書を見た。設計段階では含まれていなかった機能よ。私が辞めた後に追加された。ユーザーの脳を演算リソースとして利用する。私はそんなもの設計してない」
ミナミの声が少しだけ硬くなった。怒りではない。後悔に似ている。自分が作ったものが、自分の意図しない形で使われている。エンジニアにとってはバグよりたちが悪い。
「で、おれに何の用ですか」
「取引。あなたに上位ARレイヤーへのルートを提供する。私はオムニバース社のインフラ設計を知っているから、正規の認証を迂回するバックドアを仕込んである。今でも使える」
「タダじゃないですよね」
「もちろん。データセンターに私の研究データが残っている。生体ボットネットの対抗技術。辞めるときに持ち出せなかった。それを回収してほしい」
「データセンター。ガシマの端末に名前が出てた場所だ」
「そう。物理的にはお台場の埋め立て地にある。表向きはクラウドサービスのサーバーファーム。裏はオムニバース社の中枢インフラ」
おれは椅子の上で腕を組んだ。
巻き戻せ。整理する。
一、ミナミは元オムニバース社の開発者。 二、上位レイヤーへのバックドアを持っている。 三、交換条件はデータセンターからの研究データ回収。 四、データセンターはお台場。
上位レイヤーへのアクセスは欲しい。リサの凍結命令がRoot直轄から出ていることは分かった。Rootに近づくには上位レイヤーに行くしかない。
だがデータセンターへの侵入は、ガシマと戦うのとは次元が違う。エリアマネージャーは末端だ。データセンターはオムニバース社の心臓部。セキュリティのレベルが桁違いだろう。
「リスクの見積もりは」
「高い。モデレーター部隊の常駐警備。物理的な防壁。ファイアウォール。全部ある。でもね、クロヤくん」
「何ですか」
「あなたたちがガシマを倒した方法は見た。課金で殴り合うんじゃない。相手の仕組みを逆手に取る。そういう発想ができる人間は、このシステムには少ない」
おれは干し肉を噛んだ。ポケットに入れておいた最後の一切れ。
「ミナミさん。一つ条件があります」
「何?」
「おれたちのことを、誰にも言わないでください。名前も、居場所も。信用の残高がゼロの相手とは取引できない」
ミナミが笑った。初めて見る笑い方だった。エンジニアの笑い方。仕様を理解した人間の笑い方。
「了解。守秘義務ね。契約書は要る?」
「要りません。利用規約で十分です」
おれはデバイスを取り出した。画面に文字を打った。
臨時利用規約 第1条: ミナミは上位レイヤーへのアクセス手段を提供する 第2条: クロヤとリサはデータセンターから指定データを回収する 第3条: 双方は相手の情報を第三者に開示しない 第4条: 本規約に違反した場合、信用残高はマイナス無限大とする □ 同意しますか?
ミナミはデバイスの画面を見て、また笑った。
「信用残高がマイナス無限大。面白い罰則ね」
「おれたちの世界の最大のペナルティです」
「同意するわ」
チェックが入った。
契約が成立しました 今後ともよろしくお願いいたします
廃工場の屋上から、東京のスカイラインが見えた。ビルの隙間にAR広告が蠢いている。上位レイヤーの住人たちは、この景色をもっときれいに見ているんだろう。
おれは今まで下からしか見たことがない。
それが変わる。