小説置き場

第22話「エスカレーション・チケット」

2,060文字 約5分

裏東京に名前が広まるのは、おれにとっていいことなのか悪いことなのか、脳の処理速度では判定しきれない案件だった。

 ガシマを倒した――エリアマネージャーを無課金が倒したという噂は三日で裏東京の隅まで広まった。闇市場のオヤジが「お前、有名人じゃねえか」と笑い、無許可クリニックの医者が「あんた保険ないでしょ、今度タダで診てやるよ」と言い、路地裏のカフェの女が「コーヒー奢るわ」と手招きした。

 全部断った。有名になるのは好きじゃない。有名になると、フードを被って歩けなくなる。

 だが一人だけ、断れない相手が現れた。

 裏東京の東端。廃工場の屋上。呼び出されて来てみたら、五十代くらいの女性が折りたたみ椅子に座っていた。白髪交じりのショートカット。眼鏡。白衣じゃないのにラボのにおいがする人間がいるとしたら、この人だ。

「クロヤくん。座って」

 もう一脚、椅子が用意されていた。座った。

「ミナミです。元オムニバース社の開発部門にいた」

 右耳の後ろに手が伸びた。癖だ。元オムニバース社。開発部門。つまりこのシステムを作った側の人間。

「辞めたんですか。それとも追い出されたんですか」

「鋭いね。追い出された。正確には、自分から辞めたけど、辞めざるを得ない状況に追い込まれた。よくある話よ」

「何を作ってたんですか」

「エーテル・システム。ナノダストの制御プロトコル。ニューロ・リンクの基盤技術。全部、私のチームが設計した」

 脳のキャッシュが追いつかない。目の前の五十代の女性が、このシステムの設計者。俺が毎朝見る広告も、毎晩吸い取られる脳演算も、元を辿ればこの人の手から生まれた。

「で、辞めた理由は」

「生体ボットネットの計画書を見た。設計段階では含まれていなかった機能よ。私が辞めた後に追加された。ユーザーの脳を演算リソースとして利用する。私はそんなもの設計してない」

 ミナミの声が少しだけ硬くなった。怒りではない。後悔に似ている。自分が作ったものが、自分の意図しない形で使われている。エンジニアにとってはバグよりたちが悪い。

「で、おれに何の用ですか」

「取引。あなたに上位ARレイヤーへのルートを提供する。私はオムニバース社のインフラ設計を知っているから、正規の認証を迂回するバックドアを仕込んである。今でも使える」

「タダじゃないですよね」

「もちろん。データセンターに私の研究データが残っている。生体ボットネットの対抗技術。辞めるときに持ち出せなかった。それを回収してほしい」

「データセンター。ガシマの端末に名前が出てた場所だ」

「そう。物理的にはお台場の埋め立て地にある。表向きはクラウドサービスのサーバーファーム。裏はオムニバース社の中枢インフラ」

 おれは椅子の上で腕を組んだ。

 巻き戻せ。整理する。

 一、ミナミは元オムニバース社の開発者。  二、上位レイヤーへのバックドアを持っている。  三、交換条件はデータセンターからの研究データ回収。  四、データセンターはお台場。

 上位レイヤーへのアクセスは欲しい。リサの凍結命令がRoot直轄から出ていることは分かった。Rootに近づくには上位レイヤーに行くしかない。

 だがデータセンターへの侵入は、ガシマと戦うのとは次元が違う。エリアマネージャーは末端だ。データセンターはオムニバース社の心臓部。セキュリティのレベルが桁違いだろう。

「リスクの見積もりは」

「高い。モデレーター部隊の常駐警備。物理的な防壁。ファイアウォール。全部ある。でもね、クロヤくん」

「何ですか」

「あなたたちがガシマを倒した方法は見た。課金で殴り合うんじゃない。相手の仕組みを逆手に取る。そういう発想ができる人間は、このシステムには少ない」

 おれは干し肉を噛んだ。ポケットに入れておいた最後の一切れ。

「ミナミさん。一つ条件があります」

「何?」

「おれたちのことを、誰にも言わないでください。名前も、居場所も。信用の残高がゼロの相手とは取引できない」

 ミナミが笑った。初めて見る笑い方だった。エンジニアの笑い方。仕様を理解した人間の笑い方。

「了解。守秘義務ね。契約書は要る?」

「要りません。利用規約で十分です」

 おれはデバイスを取り出した。画面に文字を打った。

  臨時利用規約   第1条: ミナミは上位レイヤーへのアクセス手段を提供する   第2条: クロヤとリサはデータセンターから指定データを回収する   第3条: 双方は相手の情報を第三者に開示しない   第4条: 本規約に違反した場合、信用残高はマイナス無限大とする   □ 同意しますか?

 ミナミはデバイスの画面を見て、また笑った。

「信用残高がマイナス無限大。面白い罰則ね」

「おれたちの世界の最大のペナルティです」

「同意するわ」

 チェックが入った。

  契約が成立しました   今後ともよろしくお願いいたします

 廃工場の屋上から、東京のスカイラインが見えた。ビルの隙間にAR広告が蠢いている。上位レイヤーの住人たちは、この景色をもっときれいに見ているんだろう。

 おれは今まで下からしか見たことがない。

 それが変わる。