小説置き場

第2話「利用規約に同意しますか」

5,947文字 約12分

走った。廃データセンターの通路は真っ暗で、足元にはケーブルの残骸が蛇のように散らばっている。手回し懐中電灯の光が揺れるたびに、錆びたサーバーラックの影が壁を這う。

 銀髪の令嬢は、俺の三歩後ろを走っていた。ドレスの裾が瓦礫に引っかかるたびに布が裂ける音がするが、足は止めない。さすがに元エンタープライズだ。体力が違う。無課金の俺は既に息が上がっているのに、彼女の呼吸はまだ乱れていない。

 電子音が近づいてくる。

「左。左に曲がれ」

 俺は通路の分岐点で方向を指示した。右に行けば正面出口。だがモデレーター部隊が先に回り込んでいる可能性が高い。左は地下の配管スペースに繋がっている。去年、この廃データセンターの図面をジャンク屋のオヤジから買った。間取りは頭に入っている。

「なぜ左なの」

「説明してる暇がない」

「……」

 令嬢は黙って左に曲がった。判断が速い。レスポンスタイム一秒以下。命の懸かった状況で、見知らぬ少年の指示に従うかどうかをそれで決められる人間は多くない。

 配管スペースへの階段を降りる。天井が低くなる。空気が変わる。錆と機械油と、かすかにカビの匂い。足元は濡れている。どこかで水道管が破裂しているのだろう。

 階段の底に着いたとき、頭上からブーツの足音が響いた。複数。規則正しいリズム。軍隊式の歩調。モデレーター部隊が建物に突入したのだ。表の人間には見えない装備で、表のルールに縛られない連中。

 配管スペースは幅一メートルほどの通路が入り組んでいて、左右の壁を太い配管が走っている。天井のパイプから水滴が落ちて、薄い水たまりに波紋を作っている。懐中電灯を消した。暗闇。

「明かりを消さないで」

「消す。こっちはARのナイトビジョンも使えないんだよ。暗闇は平等だ。あいつらのナイトビジョンはプレミアムプランの高解像度版だから、光があるほうが不利になる」

「……暗闘のほうがマシだということ?」

「マシ。つーか唯一の勝ち筋」

 壁に手をつきながら進む。配管の継ぎ目の凹凸を指で数える。三つ目の継ぎ目を過ぎたら右に折れる。四つ目で左。ここは去年一度通ったことがある。

 後ろで令嬢がついてくる気配。足音は軽い。だが、時折コンクリートの壁に肩がぶつかる音がする。暗闇に慣れていない。上位ARレイヤーの人間は常にARが光っているから、本当の暗闇を経験したことがないのだろう。

 通路が少し広くなった場所で、俺は立ち止まった。

「ここで待つ」

「待つ? 逃げるのではなく?」

「出口はこの先にある。だが配管スペースの出口は一つしかない。追われたまま出たら袋小路だ。ここで一人始末する」

「始末って」

「殺さない。システム的に無力化するだけだ」

 暗闇の中で、令嬢が息を呑む気配がした。

 頭上の足音が、階段を降りてくる音に変わった。一人分。先行偵察。慎重だが、無課金のユーザー一人が配管スペースに逃げ込んだ程度では増援は呼ばない。コスト意識が高いのはモデレーターも同じだ。経費は使い放題でも、報告書に書くのは面倒くさい。

 足音が近づく。

 俺は首から下げたデバイスを左手で握った。物理キーボードの蓋を親指で弾く。カチ、と小さな音。右手にはさっき拾った長さ三十センチほどの配管の破片。武器としては原始的だが、必要なのは三秒だけだ。

 ナイトビジョンの淡い緑色の光が、通路の角に映った。モデレーターが角を曲がってくる。ARサングラス越しに暗闇の視界を確保しているはず。こちらの位置は見えているはずだ。

 だがモデレーターが俺を「視認した」瞬間、俺は配管の破片を投げた。

 狙いはモデレーターの顔ではない。その二メートル手前の天井。配管の継ぎ目。

 ガァン、と金属音が鳴り響いた。同時に、腐食していた継ぎ目から錆びた水が噴き出す。予定通り。去年来たとき、ここの配管が限界まで腐っていたのは確認済みだ。

 噴き出した錆水がモデレーターのARサングラスを直撃した。レンズが水滴で曇る。

 ナイトビジョンが一瞬途切れる。

 その一瞬——俺は駆けた。

 モデレーターの懐に入る。相手の身長は百八十以上。装甲服の上からでも分かる鍛えられた体。正面から殴り合えば三秒で負ける。だが正面から殴り合う必要はない。

 サングラスを拭おうとしてモデレーターの右手が顔に上がった瞬間、左手のデバイスを相手の腹部に押し当てた。キーボードの打鍵を三連打。相手のAR視界にコマンドを流し込む——。

  ⚠ 緊急セキュリティ警告 ⚠   お使いのアカウントに不正アクセスの疑いがあります   今すぐパスワードを変更してください   ▶ パスワード変更はこちら ◀

 偽の警告画面。ハードウェア割り込みによる強制表示。ARサングラスの視界全体を覆うように展開される。

 モデレーターの動きが止まった。

 訓練されたプロなら無視する。だが問題は、この警告画面が視界の九十パーセントを占めていて、画面を閉じるための「×」ボタンが見当たらないことだ。フリープランの広告と同じ構造だ。スキップ不可。ただし、広告と違って五秒で消えたりはしない。

「——何だこれは。チッ」

 モデレーターが右手でAR操作を試みる。画面を閉じようとスワイプする。だがスワイプするたびに、新しいポップアップが開く。

  本当に閉じますか?   閉じる前にアンケートにご協力ください   お得なセキュリティプランのご案内

 閉じようとするたびに増える。サポート詐欺の基本構造だ。パニックを誘発し、冷静な判断力を奪う。

 モデレーターがポップアップと格闘している間に、俺は相手の背後に回った。

 後頭部。生体ポートの位置。髪の生え際のやや下。装甲服の襟の隙間から、わずかに皮膚が見えている。

 デバイスのコネクタ端子を押し当てた。

 一秒。

 モデレーターが気づいた。首をひねる。

 二秒。

 腕が後ろに伸びてくる。俺の腕を掴もうとしている。

 三——。

 接続完了。

 コマンドが流れ込む。

  ユーザーステータス:強制ログアウト処理中……   セッションを終了しています……   今月のご利用ありがとうございました

 モデレーターの体から力が抜けた。膝から崩れ落ちる。AR装甲の光が消える。異能がオフラインになる。強制ログアウト。再ログインには本人認証と上長の承認が必要だ。最短でも三十分はかかる。

 倒れたモデレーターの体を壁際に寄せた。呼吸はある。気を失っているだけだ。

「……何をしたの」

 暗闇の向こうから、令嬢の声がした。平静を装っているが、かすかに震えている。

「強制ログアウト。生体ポートに直接コマンドを打ち込んだ。再ログインまで三十分。その間に逃げる。原価ゼロ円の勝利だ」

「異能なしで、モデレーターを?」

「異能なんて使ってない。こいつがやられたのは偽のポップアップ広告と、三秒間の物理接続。使ったのはハードウェアとソーシャルエンジニアリングだけだ。課金額ゼロ円。消費税もかからない」

 令嬢は何も言わなかった。暗闇の中で、彼女の青い瞳だけが凍結ウォーターマークの赤い光を反射していた。

 配管スペースの出口は、渋谷の裏路地に繋がっていた。

 錆びたハッチを押し開けて地上に出ると、夜の東京の空気が頬を撫でた。雑居ビルの非常灯と、遠くのコンビニの明かり。普通の街。だがニューロ・リンク越しに見れば、壁面にはAR広告が蠢き、路面にはデータの残骸が光っている。表と裏が重なる街。

 令嬢が後から出てきた。ドレスの裾は三箇所裂けていて、白い手袋は両方とも泥と錆で茶色くなっていた。銀髪にコンクリートの粉がまだらに付着している。だが背筋は伸びたまま。立ち姿だけは、裏路地の景色に似合わない凛としたものだった。

 周囲を確認する。裏路地。人通りはない。モデレーター部隊の追手がこのルートを把握しているとは考えにくい。公式の建物図面には配管スペースの出口は記載されていないからだ。

「……ありがとう」

 令嬢が言った。俺は少し驚いた。礼を言われると思っていなかった。

「助けたわけじゃない。モデレーターから逃げたかったのは俺も同じだ。無課金がモデレーターの巡回エリアで見つかったら、最低でもアカウント査察。最悪、フリープランの強制解除。そうなったらチップが脳から引き抜かれる。死ぬ確率は四割」

「そう」

 令嬢はそれだけ言って、裏路地の壁にもたれかかった。初めて、疲労の色が顔に出た。膝の擦り傷から血が滲んでいる。

 沈黙が落ちた。遠くで居酒屋の喧騒が微かに聞こえる。表の世界の、普通の夜の音。

「名前は」

 聞いたのは俺だった。

「リサ」

「苗字は」

「ない。凍結されたとき、戸籍データごとアカウントから削除された。今の私には名前しか残っていない」

 苗字ごと消すのか。エンタープライズの永久凍結は噂以上に容赦がない。

「クロヤ」

「それが名前?」

「通り名。本名は知らなくていい」

 リサは頷いた。詮索しない。上位ARレイヤーの人間にしては、いや、上位ARレイヤーの人間だからこそ、名前の重さを知っているのかもしれない。名前を奪われた人間は、他人の名前を軽く扱わない。

 視界の右端に、いつもの透かし文字が浮かんでいる。

  Omniverse Free

 リサの体には、赤い凍結ウォーターマークが点滅し続けている。

  ACCOUNT SUSPENDED

 フリーと凍結。どちらもオムニバース社にとっては「金にならないユーザー」だ。ゴミ箱の中身の分類が違うだけで、ゴミであることに変わりはない。

「で、どうするんだ。あんた」

「どうする、とは」

「これからの話だ。凍結BANされて、モデレーターに追われて、こんな場所に落ちてきた。金は。身寄りは。住む場所は」

 リサは黙った。三秒。五秒。

「……ない。全部」

「だろうな」

 アンダー・ラグで身寄りも金もない人間がどうなるか。俺は知っている。

 生体ボットネットの負荷を二倍に設定されて、三ヶ月で衰弱死する。それが一番多いパターンだ。あるいは、違法な人体実験の被験者にされる。あるいは、単純に餓死する。選択肢はどれも最悪だ。

 俺は考えた。

 リサは元エンタープライズだ。上位ARレイヤーの仕組みを知っている。セキュリティ体制、権力構造、人脈の地図。俺が喉から手が出るほど欲しい情報を、この女は頭の中に持っている。

 逆に、リサには俺が必要だ。凍結BANの解除方法があるとすれば、それはシステムの外側からのハック、つまり俺のような人間の領域だ。上位ARレイヤーの正規ルートで凍結を解除できるなら、とっくにそうしているだろう。

 利害は一致している。

 問題は、信用だ。

 こいつを信じていいのか。凍結された上位ARレイヤーの令嬢がアンダー・ラグに落ちてきた。話としてはきれいだ。きれいすぎる。これ自体がモデレーターの罠という可能性は?

 巻き戻せ。考えすぎか。モデレーターがこんな回りくどい罠を仕掛ける理由がない。無課金のユーザー一人を捕まえるのに、エンタープライズの凍結を偽装するコストが見合わない。

「取引をしよう」

 俺は言った。

 リサが顔を上げる。青い瞳が、凍結ウォーターマークの赤い光の向こうから俺を見た。

「俺はあんたのBAN解除を手伝う。技術的なアプローチで、凍結を解除する方法を探す。代わりに、あんたは上位ARレイヤーの情報を俺に提供する。組織の構造、セキュリティの穴、意思決定のフロー。全部」

「……それだけ?」

「それだけだ。友情とか信頼とか、そういうのは期待しなくていい。利害の一致。ビジネスだ」

 リサは俺の顔を見つめた。長い間。暗い路地の中で、赤い凍結マークと灰色のフリーマークが互いの顔を照らしている。

「条件がある」

「聞く」

「私の凍結を解除するだけじゃ足りない。私を陥れた人間を見つける。誰が、なぜ、私のアカウントを凍結させたのか。それを明らかにする。そこまでが契約」

 復讐か。

 気が合うじゃないか。

「いいだろう。俺も、あんたの敵と同じ場所にいる連中に用がある」

 リサの目が細くなった。何かを読み取ろうとしている。だが俺はそれ以上は言わなかった。両親のことを、今日会ったばかりの人間に話す気はない。

「契約成立ね」

 リサが右手を差し出した。白い手袋は泥で汚れている。

 俺はその手を取らなかった。

 代わりに、デバイスの画面を見せた。

  利用規約   第1条:本契約は、甲(クロヤ)と乙(リサ)の間で締結される   第2条:甲は乙のアカウント凍結解除に関する技術的支援を提供する   第3条:乙は甲に対し、旧所属階層に関する情報を誠実に開示する   第4条:契約期間中、相互に危害を加えないことを約する   第5条:本契約は、いずれかの目的が達成された時点で終了する      □ 利用規約に同意しますか?

「……本気?」

「俺たちの世界じゃ、握手より規約のほうが信用できる。——同意するかしないか。チェックボックスは一つだ。ダークパターンはない。約束する」

 リサは呆れたような、感心したような、複雑な顔をした。

 それから、ほんの少しだけ笑った。

 アンダー・ラグに落ちてきてから、おそらく初めての笑み。

「同意する」

 チェックボックスにチェックが入った。

 画面に表示が変わる。

  契約が成立しました   今後ともよろしくお願いいたします   ※本契約にクーリングオフ制度は適用されません

「クーリングオフなし?」

「当然だろ。命がけの契約に八日間の猶予なんてつけてたら死ぬ」

 リサは今度こそ声を出して笑った。小さく、短く。だがそれは確かに笑い声だった。

 赤い凍結マークの下で、銀髪の令嬢が笑っている。東京の裏路地で。ドレスの裾が破れて、膝から血を流して、名前以外の全てを失った状態で。

 おかしな光景だった。

「まず住む場所だ。俺のアパートの隣が空いてる。住人が出ていったか、出られなくなったか。とにかく空き部屋だ。鍵はない。ドアが閉まるだけ。家賃は要らない。大家はもういない」

「……それは不法占拠では」

「アンダー・ラグに合法も不法もない。あるのは、今日生きてるか明日死んでるか。それだけだ」

 歩き出した。リサがついてくる。

 東京の夜。表通りから二本裏に入っただけで、風景が変わる。ニューロ・リンク越しに見ると、ビルの壁面にAR広告が蠢き、路面にデータの残骸が流れている。表の人間にはただの暗い路地。裏の人間には、光と情報が溢れる別世界。

 リサは上を見上げていた。東京の夜空。ビルの隙間から、かすかに星が見える。

「きれいね」

「ただの空だよ。雲が多いけどな」

「知ってる。でも、下から見ると、違って見えるのね」

 俺は何も言わなかった。

 アパートに着くまで、二人とも黙って歩いた。

 視界の右端で、フリープランの透かし文字が薄く光っている。いつもと同じ。何も変わらない。

 ただ、隣を歩く人間が一人増えただけだ。

 面倒ごとが、一つ増えただけだ。

 たぶん。