小説置き場

第19話「ローカルホストの隣人」

2,456文字 約5分

作戦開始は明日で、今日は準備と休息の日だった。リサがボットネットの負荷で昼間でも突然眠りに落ちるようになっていて、四畳半の床に毛布を敷いて丸まっている。銀髪が顔にかかっている。

 俺はデバイスの調整をしながら、リサの寝顔を見ないようにしていた。見ると心配する。心配は判断を鈍らせる。

 階段を降りた。ジャンク屋の一階。

 オヤジが棚の整理をしていた。三十年分のジャンク。基盤、ケーブル、コネクタ、ネジ。全部に値段がつけてある。手書きの値札。

「坊主。メシ食ったか」

「食ってない」

「食え」

 オヤジがカウンターの奥から弁当箱を出した。プラスチックの容器。中身は白飯と焼き鮭と沢庵。

「これ、オヤジが作ったのか」

「近所の飯田さんだ。うちに持ってきてくれた。お前と銀髪の嬢ちゃんの分もある」

 飯田さん。名前は聞いたことがある。この区画に住んでいる七十代の女性。元エンジニア。

「飯田さんって」

「元・大手メーカーのハードウェアエンジニアだ。定年退職して、こっちに越してきた。ニューロリンクは持ってないが、配線の修理だけはこの界隈で一番うまい」

 弁当を食べた。白飯が美味い。焼き鮭が美味い。沢庵が美味い。こんな普通のご飯を、裏東京で食べられるとは思わなかった。

 食べ終わって、外に出た。

 蒲田の裏路地。昼間。表の世界の住人たちが行き交っている。ニューロリンクを持たない一般市民。彼らには俺の灰色のウォーターマークが見えない。

 路地の奥に、看板のない建物がある。二階建て。窓にカーテン。入り口に小さな椅子。

 無許可クリニック。

 中に入ったことはなかった。今日は入ってみた。

「いらっしゃい。患者さん?」

 中年の女性。白衣。髪を後ろで結んでいる。穏やかな目。

「患者じゃないです。挨拶に。隣のジャンク屋の二階に住んでるクロヤです」

「ああ。坊主の子ね。オヤジから聞いてるわ」

 名前は出さなかった。この界隈では名前を聞かないのが礼儀だ。

「先生って呼ばれてますか」

「先生でいいわよ。本当は先生じゃないけどね。医師免許は十年前に返上した」

「返上?」

「ニューロリンクの後遺症を診てた頃、オムニバース社から『その患者は存在しない。治療記録を消せ』と言われたの。消さなかったら、医師免許の審査で引っかかるようにされた。——仕組みは分からないけど、免許更新の書類が何度も『不備あり』で戻ってくるようになって」

「それで」

「返上したの。自分から。免許がなくても、人は診れる。薬は出せないけど、応急処置と健康相談はできる」

 免許を奪われた医者が、裏東京で無許可クリニックを開いている。患者はフリープランのユーザーたち。ボットネットの負荷で体を壊した人間。広告のストレスで不眠になった人間。

「リサって子、ボットネットの負荷が来てるんじゃない?」

「分かりますか」

「顔色で分かるわ。昼間の眠気、手の震え、食欲の低下。初期症状。連れてきなさい。簡単なチェックくらいはできる」

「……ありがとうございます」

 クリニックを出た。路地を歩いた。

 角を曲がったところに、飯田さんがいた。七十代の小柄な女性。白髪。エプロン。折りたたみテーブルの上に、はんだごてとルーペ。

 路上で基盤の修理をしていた。

「あ、クロヤくん。弁当食べた?」

「食べました。ありがとうございます」

「いいのよ。一人分も三人分も手間は同じだから。それ、デバイス? 見せて」

 俺のデバイスを見せた。飯田さんが目を細めて基盤を覗いた。

「ここの接続、甘いわね。はんだが浮いてる。直しましょうか」

「いいんですか」

「五分でできるわ。座ってなさい」

 飯田さんの手が動いた。はんだごて。煙。焦げた匂い。七十歳の手が、正確に基盤の端子にはんだを乗せていく。

「飯田さん。ここに住んで長いんですか」

「十五年。退職してすぐ。家賃が安かったのよ。年金暮らしだから」

「ニューロリンクは」

「持ってないわよ。興味がない。私はアナログの人間だから。でもね、この界隈の人たちがニューロリンクで困ってるのは見てる。夜中に目が覚めて苦しんでる若い子を見てる」

 飯田さんの手が止まった。はんだごてを置いた。

「あんたたち——何かしようとしてるんでしょう」

「何のことですか」

「とぼけなくていいわよ。モデレーターが来て、あんたが追い返して、今度はスーツの男が来た。あんたたちが戦ってるのは、この界隈にいれば分かる」

「戦ってる、というか」

「戦ってるのよ。私は手伝えないけど。はんだごてしか持ってないから。でも弁当は作れるわ」

 飯田さんがデバイスを返してくれた。接続が直っている。動作が少し速くなった。

「ありがとうございます」

「もう一つ。銀髪の子にも弁当持っていきなさい。痩せすぎよ、あの子」

 弁当を二つ持って、ジャンク屋の二階に戻った。リサはまだ寝ていた。

 弁当を枕元に置いた。

 窓から外を見た。蒲田の午後。路地裏。飯田さんがはんだごてを動かしている。クリニックの先生が洗濯物を干している。オヤジが棚を整理している。

 守る理由。巻き戻せ。何がおかしい。

 復讐が目的だった。オムニバース社に両親を殺された。その報復。それだけが理由だった。

 でも弁当の味が口に残っている。白飯と焼き鮭と沢庵。飯田さんが三人分作ってくれた弁当。

 オヤジの薄いコーヒー。先生の「連れてきなさい」。飯田さんのはんだごて。

 この区画の人間たちは、金も力もない。ニューロリンクを持っている人間も、持っていない人間も。ただ、ここにいる。静かに暮らしている。

 ガシマが来たら、この静けさが壊される。

 復讐とは別の理由が——できてしまった。

 リサが目を覚ました。

「……何時」

「三時。弁当あるぞ。飯田さんから」

「飯田さん……隣のおばあさん?」

「ああ。食え。痩せすぎだって言われた」

 リサが弁当を食べた。白飯を一口食べて、目を閉じた。

「美味しい」

「だろ」

「こんな普通のご飯が、こんなに美味しいなんて」

「普通が一番美味いんだよ。——食え。明日、戦争だ」

 リサが笑った。弁当を食べながら。

 窓の外で、夕日が蒲田の屋根を照らしている。オレンジ色。普通の夕日。

 明日——この夕日を、守る。