二十四時間で、六十八個のトラップを仕掛けた。トラップの中身はシンプルだ。ワンクリック詐欺。モデレーターが区画内の任意のARオブジェクトに触れた瞬間、強制的に架空のプレミアムサービス契約画面が展開される。契約内容は嘘。だが利用規約のフォーマットは本物と同一だ。
オムニバース社のシステムには奇妙な癖がある。利用規約の形式を正確に踏んだ契約画面が表示された場合、たとえそれが詐欺であっても、システムは「契約処理中」のステータスフラグを立てる。フラグが立っている間、そのユーザーの他の操作にはペナルティ遅延が発生する。
契約が無効だと証明するには、サポートセンターへの異議申し立てが必要になる。異議申し立ての処理時間は最短三分。
三分間の足止め。一つのトラップにつき三分。六十八個あれば。
「数学は得意?」
リサが聞いた。
「嫌い」
「六十八掛ける三分は二百四分。三時間半よ」
「全部踏めばな」
「踏むように誘導するのが、あなたの仕事でしょう」
その通りだ。
トラップの配置には法則がある。人間の動線に沿って配置する。モデレーターは訓練されている。通常のフィッシング画面なら即座に閉じる。だがこのトラップは画面を「閉じる」操作にも罠を仕込んである。
閉じるボタンを押すと、別の契約画面が開く。その契約画面を閉じようとすると、さらに別の。無限ループではない。三段階。三段階目にようやく本物の「閉じる」が出る。だがその頃にはシステム側で契約処理フラグが三つ立っていて、それぞれに異議申し立てが必要になる。
一つ踏むだけで九分。
「悪質すぎない?」
「褒め言葉として受け取る」
深夜三時。配置完了。
俺は蒲田の区画の地図をデバイスに表示した。赤い点が六十八個。地雷原。
モデレーターの侵入経路は三つ。北の交差点。東の商店街。南の高架下。それぞれの経路に均等に配置——してない。
「南に偏ってるわね」
「わざとだ。北と東は薄くしてある。モデレーターは偵察で配置を調べる。薄い方を選ぶ。北か東から来る」
「でも南が本命なの?」
「違う。北と東が本命だ。薄く見せて、奥に密集配置してある。入り口は通れる。でも百メートル進んだところで、連鎖する」
リサが地図を覗き込んだ。細い指で経路をなぞった。
「……ここ。この路地を曲がった瞬間に三つ同時発動。次の十メートルで二つ。さらに五メートルで」
「絨毯爆撃。五十メートルの区間に十五個。一歩ごとに契約画面が爆発する。モデレーターの視界が契約書で埋め尽くされる」
「閉じても閉じても出てくるのね」
「ポップアップ広告の悪夢だ。二十年前のインターネットが蘇る。懐かしいだろ」
「私の世代じゃないわ」
朝が来た。
六時。蒲田の街が目を覚ます。表の世界の住人、ニューロリンクを持たない一般市民が通勤を始める。彼らの目にはモデレーターは見えない。防塵コートを着た怪しい集団としか映らない。
七時三十二分。
動きがあった。
北の交差点のモデレーター三人が、隊列を組んで区画内に侵入を開始した。
俺はジャンク屋の二階の窓から見ていた。デバイスの画面に、トラップの状態がリアルタイムで表示されている。赤い点が待機中。
モデレーターが最初の五十メートルを通過した。トラップは反応しない。薄い区間だ。
百メートル。曲がり角。
先頭のモデレーターが路地に入った。
赤い点が——光った。
「第一波、発動」
デバイスのログが流れた。
[07:33:12] TRAP_N-014: triggered. Target: MOD_UNIT_03 [07:33:12] Contract display: "Premium Cache Optimization Plan" [07:33:12] Target status: CONTRACT_PROCESSING [07:33:14] Target attempted: CLOSE [07:33:14] TRAP_N-014b: triggered. Secondary contract display [07:33:15] Target attempted: CLOSE [07:33:15] TRAP_N-014c: triggered. Tertiary contract display
三段連鎖。先頭のモデレーターの視界が契約書で埋まっている。
二人目が止まった。先頭が動かなくなったのを見て警戒している。
だが止まった場所が——トラップの上だった。
[07:33:18] TRAP_N-015: triggered. Target: MOD_UNIT_04
「二人目、捕捉」
リサが画面を覗き込んでいる。
三人目のモデレーターが後退しようとした。振り返った。一歩踏み出した。
[07:33:21] TRAP_N-013: triggered. Target: MOD_UNIT_05
「三人目。全員捕まった」
「……すごいわね」
「すごくない。仕組みは単純だ。ただの詐欺ポップアップだ。でも単純なものほど避けにくい」
画面のログが加速した。三人のモデレーターが同時に契約書を閉じようとして、次々に新しい契約書が開いている。視界が書類で埋まっている。まるで役所の窓口で永遠にたらい回しにされているような——。
いや、まさにそれだ。
俺がやっているのは、官僚制度のデジタル版だ。書類と手続きで人間を拘束する。銃もナイフも要らない。必要なのは利用規約の知識と、ポップアップのタイミングだけ。
七時四十五分。東の商店街からも侵入があった。二人。こちらも同じパターンで捕捉。
八時十分。南の高架下。こちらは偵察だけで引き返した。南の密度に気づいたのだろう。だが北と東はもう地雷原の中だ。
デバイスの集計画面。
捕捉モデレーター: 5/6(推定) 発動トラップ: 23/68 平均足止め時間: 7分32秒(推定) 異議申し立て処理待ち: 累計68件
「六十八件の異議申し立て。オムニバース社のサポートセンターが処理するのに」
「最短で四時間。現実的には半日。その間、こいつらの能力使用にはペナルティ遅延がかかり続ける」
リサが息を吐いた。感嘆とも呆れともつかない息。
「あなた、本当に詐欺師ね」
「最高の詐欺師だ。東京一の」
で、その結果がこれなわけだが。
オヤジが階段を上がってきた。薄いコーヒーを二つ持っている。
「坊主。モデレーターの連中、路地で固まって動けなくなってるぞ。通行人が不審がってる」
「放っておけ。あと四時間は動けない」
オヤジがコーヒーを置いた。俺とリサの分。
「もう一杯淹れてくるかい」
「誰の分だ」
「下で待ってる連中の。昨日の七人。朝から来てる」
七人。昨日集めた無課金ユーザー。戦況を見に来ている。
「……淹れてやってくれ」
俺はコーヒーを飲んだ。薄い。いつもの味だ。
窓の外で、蒲田の朝が普通に流れている。通勤の人波。パン屋の開店。消防車のサイレン。表の世界は何も知らない。
裏側では地雷原が、静かに機能している。