異変に気づいたのは、オヤジのジャンク屋だった。朝八時。蒲田の裏路地。オヤジが店のシャッターを開けようとして、手を止めた。
「坊主。来い」
呼ばれて階段を降りた。リサはまだ寝ている。ボットネット負荷の影響で朝が弱い。
オヤジがシャッターの隙間から外を指した。
路地の向こう。二百メートル先の交差点に——人影が三つ。黒い防塵コート。フードを目深に被っている。手にはタブレット端末。首の後ろに金属の光。ニューロリンクの外付けモジュール。
モデレーターだ。
「昨日からいる。夜中に来た。交差点に三人、駅前に二人、商店街の入り口に一人」
「六人?」
「見えてる分でだ」
六人。アンダー・ラグの一区画に六人のモデレーター。普段は一人来るかどうかだ。しかも連携配置。交差点を押さえている。逃走経路を塞ぐ布陣。
「掃討だ」
俺は呟いた。
「掃討?」
「定期的にある。オムニバース社がアンダー・ラグの無課金居住者を一掃する作戦。やつらの社内用語じゃ『クリーンアップ・アップデート』だ。バグ修正と同じ扱い。俺たちはバグだから」
オヤジの顔が歪んだ。三十年ジャンク屋をやってきた男の顔が、初めて恐怖に近い色を見せた。
「前回は二年前だった。あのときは南側の地区が潰された。住人の半分がBAN処理された。残りは散った」
「知ってる。うちの常連が三人消えた」
消えた。BANされた。凍結されたのではない。アカウントごと削除された。ニューロリンクを強制遮断され、脳にダメージを負い、廃人同然になった者もいる。オムニバース社の公式発表は「不正利用アカウントの停止処理」。
二階に戻った。リサを起こした。
「クロヤ? まだ六時」
「八時だ。寝坊してる。外を見ろ」
リサが窓から外を見た。表情が変わった。
「モデレーター、何人?」
「少なくとも六。たぶんもっといる」
「掃討作戦?」
「ああ。お前がエンタープライズにいた頃、聞いたことないか。下層浄化とか」
リサの顔がこわばった。
「……あった。四半期レポートに『不良セグメント清掃』という項目があった。数字だけ。処理件数と処理率。あれが、これなのね」
「数字の中身がこれだ。ようこそ現場へ」
部屋の中で考えた。巻き戻せ。何がおかしい。何が必要だ。
逃げるか。俺とリサだけなら逃げられる。蒲田を離れて、別の区画に移ればいい。モデレーターの包囲網は面ではなく点だ。裏道を使えば抜けられる。
だがオヤジはどうなる。
ジャンク屋のオヤジ。三十年ここにいる男。この店が生活のすべてだ。逃げろと言えば逃げるだろう。だが逃げた先に店はない。三十年分のジャンクは持ち運べない。
オヤジだけじゃない。この区画には何十人もの無課金ユーザーが住んでいる。家族もいる。ニューロリンクの有無に関係なく、ここで暮らしている人間がいる。
俺は復讐のためにここにいる。オムニバース社に両親を殺された。その報復。それだけが目的だった。
この区画の住人を守る義理はない。
ないはずだ。
「クロヤ」
リサが俺を見ていた。
「何か考えてるでしょう」
「考えてない」
「嘘。あなたが天井を見るのは、選択肢を比較してるとき」
バレてる。
「逃げられるわ。私たち二人なら。でもあなた、逃げる気ないでしょう」
「……なんで分かる」
「さっきオヤジさんの顔を見たとき、あなたの手が止まったから」
リサの観察力は相変わらず鬱陶しいほど正確だ。
「義理はねえんだよ。ここの住人と俺は仲間じゃない。利用し合ってるだけだ。オヤジには場所を借りてる。その対価に修理をしてる。取引だ。取引相手が潰されるなら、次を探せばいい」
「でも探さないのね」
黙った。
探さない。次のオヤジはいない。次の蒲田はない。三年かけて俺がここに根を下ろしたのは、ここが居場所だったからだ。
復讐のための拠点。それだけのはずだった。でも三年住めば、匂いを覚える。油と埃とはんだの匂い。オヤジが淹れる薄いコーヒーの匂い。朝の蒲田の、湿った空気の匂い。
「——戦う」
口に出した。
「この区画を守る。掃討を押し返す」
「どうやって?」
「俺一人じゃ無理だ。この区画の無課金ユーザーを集める。連携して防衛する」
「あなたが? 人を集めて?」
「何がおかしい」
「おかしくない。ちょっと意外なだけ。いいわ。手伝う」
一時間後。
ジャンク屋の一階に、七人が集まっていた。
全員、この区画に住む無課金ユーザー。フリープランの灰色のウォーターマークを浮かべている。年齢も性別もバラバラ。共通点はひとつ。金がない。
俺は部品棚の前に立った。
「手短に言う。モデレーターが来てる。掃討作戦だ。このまま何もしなければ、この区画は三日で更地になる。BAN処理されたくない奴は聞け」
七人の目が集まった。
「俺はお前らの味方じゃない。正義の味方でもない。オムニバース社に恨みがあって、やつらに損害を与えたい。今回の掃討を跳ね返せれば、やつらの四半期レポートに赤字が一行増える。——それだけだ」
沈黙。
「でも今、お前らの生存と俺の目的が一致してる。利害が重なる間だけ、協力する。終わったら元の他人に戻る。——それでいい奴だけ残れ」
誰も立たなかった。
七人全員、座ったまま俺を見ていた。
オヤジが壁にもたれて、薄いコーヒーを啜っていた。何も言わなかった。ただ、口の端がほんの少しだけ上がっていた。
「作戦を説明する。使うのはワンクリック詐欺のフレームワークだ。モデレーターが区画に侵入してきたら、こっちの仕掛けたトラップを踏ませる。システムの中で足止めする」
「足止め? モデレーター相手に?」
「できる。やつらもオムニバースのユーザーだ。利用規約に縛られている。規約の中で戦えば、こっちにも勝ち目がある。準備に二十四時間かかる。それまでに奴らが攻めてきたら」
「逃げる?」
「逃げる。全力で」
笑いが起きた。小さな、乾いた笑い。だが悪くない空気だった。
リサが部屋の隅で、腕を組んで俺を見ていた。銀髪。灰色のウォーターマーク。元エンタープライズの令嬢が、蒲田のジャンク屋で無課金ユーザーの作戦会議を聞いている。
目が合った。
リサが小さく頷いた。
お前ら、人を守るのに向いてるわよ、という顔。
余計なお世話だ。
俺は復讐者だ。人を守る側の人間じゃない。
——はずだった。