小説置き場

第11話「解凍の代償」

2,296文字 約5分

廃トンネルから地上に出て、十二時間。凍結を解くために圏外に潜り、解いた瞬間にまた別の鎖がかかる。サブスクの世界は、解約ボタンのないメリーゴーラウンドだ。

 俺たちは渋谷の裏路地のアパートに戻っていた。堂本が嗅ぎ回っている以上、ここも安全とは言えない。だが計算を実行するにはコンセントが要る。圏外の地下では通信ができない。BAN解除にはオムニバース社のサーバーへの接続が必要だ。

 つまり、一瞬だけ表に出なきゃいけない。

「手順を確認する」

 俺はデバイスを開いて、リサに向き直った。六畳間。薄暗い。カーテンを閉めている。

「俺がデバイスからオムニバース社の凍結管理サーバーに接続する。匿名化レイヤーを三段通す。接続したら、お前のアカウントIDと逆算した凍結キーを入力する。認証が通れば、凍結が解除される」

「認証が通らなかったら?」

「三回失敗でアカウントが完全削除される。チップが脳から遠隔で焼かれる可能性がある」

 リサの顔が白くなった。

「冗談じゃないわ」

「冗談じゃない。だからキーの精度が命綱だ。もう一度確認する。お前のアカウントID、下位三十二ビット」

 リサが数字を読み上げた。俺が手元のメモと照合した。一致。凍結時刻のUNIXタイムスタンプ。一致。SHA-256のハッシュ出力。一致。

「いける」

「いけるの?」

「理論的には」

「理論的には、って」

「百パーセントの保証なんてない。でも計算は合ってる。仕様書通りなら通る。通らなかったら」

「脳が焼かれる」

「……ごめん。もうちょっとオブラートに包めばよかった」

「いいわ。事実だもの」

 リサは壁にもたれて、目を閉じた。三秒。開いた。

「やって」

 俺はデバイスのキーボードに指を置いた。

 巻き戻せ。手順を頭の中で一度走らせる。

 接続。匿名化レイヤー一段目。二段目。三段目。凍結管理サーバーへのアクセス。認証画面。

 アカウントID。入力。

 凍結キー。百二十八ビットの数列。一文字ずつ打つ。間違えたら終わりだ。メモを見ながら。一桁、二桁、三桁。

 三十二桁。入力完了。

 エンター。

 画面が変わった。

  認証中……

 三秒。五秒。

  認証成功   アカウントステータス: SUSPENDED → FREE   凍結解除が完了しました   フリープランへの移行処理を実行中……

 リサの体が震えた。

 俺は彼女の顔を見た。

 赤い文字列が——消えていった。

  ACCOUNT SUSPENDED   ACCOUNT SUSPENDED   ACCO̷U̷N̷T̷ ̷S̷U̷S̷P̷E̷—̷—̷

 ノイズのように崩れて、溶けて、消えた。リサの体を覆っていた禍々しい赤い光が、数秒かけてゆっくりと薄れていく。

 代わりに、灰色の文字が浮かんだ。

  Omniverse Free

 俺と同じ、薄い灰色の透かし文字。フリープランの証。

 リサの目から涙が流れた。

 泣いているのを見たのは初めてだった。声は出さなかった。ただ、頬を伝って、顎から落ちた。一粒。二粒。

「消えた」

 リサの声がかすれていた。

「赤いのが——消えた」

「消えた。お前はもうBAN者じゃない。フリープランのユーザーだ」

「フリープラン……」

「ああ。おめでとう。これからは俺と同じゴミ箱の仲間だ」

 リサが泣きながら笑った。笑いながら泣いた。どっちが先か分からなかった。

 そして——五秒後、リサの視界を広告がジャックした。

 リサの瞳が焦点を失った。五秒間。きっちり五秒。

 フリープランの洗礼。BAN解除と同時に、広告配信が始まった。

「……来た」

「うん。来るよ。これから毎日、四十回」

「分かってた。分かってたけど」

 リサは広告が終わった後、自分の手のひらを見つめた。灰色のウォーターマークがうっすらと浮かんでいる。Omniverse Free。

「赤いのよりはマシね」

「マシだよ。赤は追跡対象だ。灰色はただのゴミ。ゴミは追いかけない」

 だが灰色には灰色の代償がある。

 フリープランに接続された瞬間から、生体ボットネットの負荷が始まる。リサの脳の余剰処理能力が、オムニバース社のクラウド計算資源として搾取される。毎晩四時間。眠りが浅くなる。疲労が抜けなくなる。

 三ヶ月で俺の両親を殺した、あの仕組み。

「リサ。一つだけ約束してくれ」

「何?」

「体調が悪くなったら、すぐに言え。ボットネットの負荷は個人差がある。耐えられる人間と、耐えられない人間がいる。——俺の両親は、耐えられなかった」

 リサは俺を見た。涙の跡が頬に残っている。

「……約束する」

 沈黙。

 六畳間の中で、二人とも灰色のウォーターマークを浮かべている。Omniverse Free。お揃い。

「ペアルックみたいね」

「最悪のペアルックだな」

 リサが笑った。俺も笑った。

 自由になった。凍結から解放された。でもフリープランは自由ではない。広告と搾取という新しい鎖がかかっただけだ。

 牢獄の種類が変わっただけ。

 でも、この牢獄からは戦える。凍結状態では何もできなかった。フリープランなら、少なくとも動ける。俺のデバイスとリサの知識で。

「次のステップだ」

「もう?」

「休んでからでいい。でも堂本がこっちの位置を嗅ぎ回ってる。BAN解除で通信が発生した。痕跡が残る。長居はできない」

「引っ越し?」

「引っ越し。もう少し安全な場所に。オヤジに相談する」

 リサは頷いた。灰色のウォーターマークの下で、銀髪の令嬢が笑っている。涙の跡はもう乾いていた。

 赤から灰色へ。凍結から自由へ。自由から——次の戦いへ。

 窓の外から、東京の街の音が聞こえている。車のクラクション。駅のアナウンス。表の世界の、普通の音。

 俺たちの視界にはOmniverse Freeの透かし文字が、ずっと浮かんでいる。