小説置き場

第10話「夜明けのポップアップ」

2,583文字 約6分

九十六パーセント——朝の五時、窓のない地下トンネルの中で、時間は端末の画面でしか分からない。だが空気が変わった。冷え込みが深くなっている。夜明け前の最も寒い時間帯。

 リサが目を覚ました。壁から背を離して、伸びをする。銀髪が乱れている。

「あと、どのくらい」

「残り四パーセント。二十分くらい」

「二十分……」

 リサの目がトンネルの奥に向いた。耳を澄ませている。

 五秒後、リサの顔が変わった。

「足音。——ブーツ。金属面。一人。重い」

 モデレーターか。回収屋か。

「距離は」

「百メートル。こっちに向かってる」

 俺は端末の画面を見た。九十六パーセント。一分ごとに〇・二パーセント進む。残り四パーセント。二十分。

「消灯する」

 端末の画面の明るさを最低にした。計算は続行。だが光はほぼ見えなくなる。トンネルの中が完全な暗闇になった。

 足音が近づいてくる。コツ、コツ、コツ。規則正しい。迷っていない。この場所を知って来ている。

 五十メートル。三十メートル。

 トンネルの分岐路の前で止まった。

 光が差し込んだ。端末のライトだ。外の人間が、トンネルの曲がり角から中を照らしている。

「いるのは分かっている」

 声。低く、穏やかで、事務的。堂本だ。

「凍結アカウント所持者——旧アカウント名リサ。オムニバース社債権回収部門の堂本です。出てきてください。話をしましょう」

 俺とリサは暗闇の中で目を合わせた。リサの瞳が、わずかに漏れる光を反射している。

 九十七パーセント。

「出てこないなら、こちらから入ります。ただし」堂本の声が続く。「この場で暴力を行使する意思はありません。私の権限は利用規約に基づく債権回収と、関連資産の差し押さえです。物理的な拘束権はモデレーター部隊にあります。私は」

「書類と契約で殺す側の人間だ」

 俺が言った。暗闇の中から。

 堂本の沈黙。三秒。

「そちらは、凍結者ではないですね。フリープランのユーザー。利用規約第四十七条に基づき」

「四十七条は知ってるよ。『正当な業務への妨害禁止』。俺がここにいることが妨害になるかどうかは、解釈の問題だ。あんたの業務は凍結者の回収であって、無関係のフリープランユーザーの排除じゃない」

 九十八パーセント。

 堂本がトンネルの奥に歩み寄った。ライトの光が揺れる。

「若いですね。声から判断して、十代ですか。未成年のフリープランユーザーが凍結者を匿っている場合、保護者への通知と」

「それ、処理に何日かかる?」

「え?」

「未成年の保護者通知。所定のフォームに記入して、管轄のモデレーターに提出して、保護者への連絡は書留で行われて、最短で何日?」

「……三営業日です」

「三営業日。今は金曜の朝だから、来週の水曜日。それまであんたはここでは何もできない。違うか?」

 堂本が黙った。

 ブラフだ。保護者通知の手続きが実際にどのくらいかかるかは知らない。だが、堂本は官僚的な手続きの人間だ。手順を飛ばすことを嫌う。規約を根拠に動く人間は、規約の手順に縛られる。

「もう一つ」俺は続けた。心臓が喉の奥で暴れている。「俺のデバイスは今、このトンネルのネットワーク全体に接続されている。あんたがここに一歩でも入ったら——」

 嘘だ。デバイスはバッテリーゼロだ。何も動かない。

「俺のデバイスが自動で起動して、あんたのアカウントに利用規約の論理矛盾を突く申し立てを五百件同時に送信する。処理に何日かかる?」

 堂本の足が止まった。

 利用規約の論理矛盾。オムニバース社の規約には矛盾する条項がいくつも存在する。それを突かれると、社内の法務部門が精査を始める。回収業務は精査中に凍結される。一件の精査に二日。五百件なら。

 嘘だ。デバイスは動かない。五百件の申し立ても送れない。全部ブラフ。口先だけ。

 だがブラフは、相手が信じている間は真実と同じ効果を持つ。

 九十九パーセント。

「……あなたは」堂本の声が変わった。事務的な穏やかさに、初めてわずかな苛立ちが混じった。「なかなか、面白い方ですね」

「面白いかどうかはどうでもいい。あんたに聞いてるのは、ここに入るのか入らないのかだ」

 沈黙。

 堂本のライトが消えた。

 足音が——遠ざかっていった。

 コツ、コツ、コツ。金属面を歩く音。百メートル。二百メートル。

 消えた。

 俺の膝が震えていた。立っていられない。無意識に右耳の後ろに手が伸びた。壁に手をついて、ずるずると座り込んだ。

「クロヤ」

「大丈夫。大丈夫。全部嘘だった。デバイスは動かない。五百件も送れない。ただのはったり」

 リサが俺の隣にしゃがんだ。

「知ってた。あなたのデバイス、バッテリーゼロでしょう。でも堂本は知らなかった」

「相手が確認する手段がない場所でなら、ブラフは通る。圏外だから。堂本の端末でもこっちのデバイスの状態を確認できない」

「圏外を逆手に取った」

「取った。二度は使えない。次は来た瞬間にバレる」

 端末の画面が光った。

  計算完了   キー出力: [128bit]   SHA-256検証: 一致

 百パーセント。

 凍結キー。リサのアカウントのBAN解除に必要な、現在のセキュリティキー。百二十八ビットの数列が画面に表示されている。

 リサが画面を見た。数字の羅列を。その数字が何を意味するかを。

「これで——」

「これで、お前の凍結を解除できる。理論上は」

 リサの手が震えていた。俺の手も震えていた。

 寒さのせいだけじゃない。

 俺はキーをメモ帳に手書きで書き写した。デジタルデータは消えうるが、紙は消えない。紙がブロックチェーンより強いこともある。

 荷物をまとめて、トンネルを戻った。長い地下通路を、手回し懐中電灯の光だけを頼りに歩く。十分。二十分。空気が少しずつ変わっていく。湿った地下の冷気が、生ぬるい外気に混ざり始める。

 地上への階段を見つけた。錆びた鉄の手すり。段を一つずつ上がる。頭上から光が漏れている。

 地上に出た。

 朝だった。

 東京の空が、東の端からオレンジ色に染まり始めていた。新宿の高層ビル群のシルエットが、朝焼けを背に黒く浮かんでいる。路面が朝露で湿っている。始発電車の音が遠くから聞こえる。地下にいた十数時間、この街はずっと普通に回っていた。俺たちがトンネルの底で震えている間も。

 リサが空を見上げた。

「……きれいね」

「ただの朝だよ。東京の、どこにでもある」

「分かってる。でも」

 リサが笑った。

「今は、きれいに見える」

 凍結キーを手に入れた朝だった。