小説置き場

第1話「プッシュ通知の目覚まし」

4,380文字 約9分

目覚ましより先にプッシュ通知が視界を埋めるのは、人類がどこかで進化の方向を間違えた証拠だと思う。

「——おはようございます! オムニバース・プレミアムなら、今なら初月無料! 最大五百テラの異能帯域で、あなたの朝を快適に——」

 五秒。きっちり五秒、スキップ不可の動画広告が視界をジャックする。暗い天井も、剥がれかけた壁紙も、窓枠に錆が浮いた小さな窓も、全部見えない。代わりに映るのは白い歯のモデルと、金ピカのプレミアムプランのロゴ。背景には南国のビーチ。このアパートじゃ一生拝めない景色だ。

 四、三、二、一。

 視界が戻る。薄暗い六畳間。壁のシミ。天井の配管。現実。

「……うるさ」

 俺はベッドから転がり落ちた。ベッドっていうか、ジャンクショップから引っ張ってきたスプリング剥き出しのマットレスだけど。背中にバネの跡がくっきり残ってる。毎朝これ。

 クロヤ。十七歳。都立高校の二年生、というのが表のプロフィール。裏のステータスは「無課金」。人生のセーブポイントがない側の人間だ。

 東京の裏側、アンダー・ラグ。ニューロ・リンクのAR視界を通すと、この一帯は底辺エリアとして灰色に塗りつぶされて見える。表社会の人間は知らない。知る必要もない。ここに住んでるのは、金がないか、信用がないか、その両方をなくした人間だけだ。俺は三つ全部。金も、信用も、両親も。

 昼間は制服を着て教室に座り、夜はパーカーのフードを目深に被って廃ビルの裏路地を歩く。二重生活。学校の連中は誰も知らない。俺の視界に灰色の透かし文字が浮かんでいることを。

 立ち上がると、視界の右端にいつものウォーターマークが浮かぶ。

  Omniverse Free

 薄い灰色の透かし文字。フリープランの証。何をしていても、何を見ていても、この文字は消えない。飯を食っていても。寝ていても。死んでも、たぶん消えない。

 洗面台に向かう。蛇口をひねると水が普通に出る。東京のインフラは普通だ。ただし、顔を洗っている最中にまた広告が割り込んできた。「お肌の悩みにAIスキンケア! 今なら——」。五秒間、泡がついた顔のまま虚空を見つめる。これが日常。水は止まらないが、視界が止まる。

(今日も最高の一日になりそうだな)

 着替える。穴の空いたTシャツの上にパーカーを羽織り、フードを目深に被る。首から、自作の物理キーボード付きデバイスをぶら下げる。バッテリーパック込みで一・二キロ。原価は三千四百円。ジャンクパーツから二ヶ月かけて組み上げた、おれの全財産なわけだが、見た目は古いモバイルキーボードにICチップが山盛りに載った弁当箱だ。こいつがなきゃ俺は何もできない。

 部屋を出る。廊下は暗い。照明のLEDが三つに二つ切れていて、残りの一つも明滅している。隣の部屋のドアの前に、ゴミ袋が二つ積まれている。先週からずっとある。住人が出ていったのか、出られなくなったのか。ニューロ・リンクのユーザーが身を潜めるこのアパートでは、どっちもある。

 階段を降りて外に出ると、湿った空気が首筋に絡みついた。

 新宿の外れ。表通りから二本裏に入っただけの路地だが、ここは別世界だ。ニューロ・リンクのAR視界を通すと、廃ビルの壁面に巨大な広告が映り、路面にはデータの残骸が光の粒子になって漂っている。だがニューロ・リンクを持たない普通の通行人には、ただの薄汚い裏路地にしか見えない。秘密のレイヤー。見える人間だけに見える地獄。

 通りに出ると、いつもの光景。

 崩れかけたビルの壁面に、巨大なAR広告が映っている。「月額たった九千八百円で、あなたも空を飛べる!」。翼を広げて笑う女の子のCG。その広告のすぐ横の路面に、先週の暴走事故の痕跡がまだ残っていた。異能の制御に失敗した誰かが、建物の壁に激突したらしい。警察は「原因不明の事故」として処理した。いつもそうだ。表の世界には、異能もニューロ・リンクも存在しない。死体だけが実在する。

 AR視界の上空を、今朝も何人かが飛んでいく。月初めの今が一番調子いいらしい。楽しそうに笑いながら、ビルの谷間を通過していく。こっちを見もしない。見えてないのか、見ないようにしてるのか。たぶん後者だ。AR設定でアンダー・ラグの描画を非表示にしてるんだろう。便利な機能だよな。底辺ユーザーが視界に入らないフィルター。月額九千八百円。

「クロヤ、今日もフード被ってんのか。暑くねえ?」

 闇市場の入口で、ジャンク屋のオヤジが声をかけてきた。禿頭にバンダナ。歯が三本ない。でも笑顔はいい。

「暑いよ。でも外したら顔認証で広告がパーソナライズされる。昨日うっかり外したら『彼女いない歴=年齢のあなたに! マッチングサブスク初回五百円!』って出た」

「そりゃ地獄だな」

「地獄だよ。しかも五秒スキップ不可。泣けてくる」

 オヤジが笑って、干し肉の切れ端をくれた。賞味期限は多分とっくに切れてるが、ここでは誰もそんなこと気にしない。噛むと硬くて塩辛い。朝飯はこれで十分だ。十分じゃないけど、十分ということにする。腹が減ると処理速度が落ちる。無課金の体はメモリが足りない。

 闇市場を抜ける。今日の目的地は、旧渋谷エリアの廃データセンター跡。中継アンテナの残骸から使えるパーツを回収する。

 歩きながら、視界の端に通知が点滅する。

  ご利用料金のお知らせ:今月のFreeプラン維持費——0円   ※脳演算リソースの一部をオムニバース社が利用しています

 知ってる。知ってるよ。無料ってのは、ただじゃないってこと。

 フリープランのユーザーは、寝ている間に脳の余剰処理能力をオムニバース社に吸い取られている。生体ボットネット。ユーザーの大半は、自分の寿命が少しずつ削られていることを知らない。知ったところで、プランを変更する金がないんだから同じことだ。

 俺は知ってる。ニューロ・リンクを脱獄してから、システムログが読めるようになった。毎晩、四時間分の脳演算が勝手に持っていかれている。四時間。眠りが浅いわけだ。朝起きて疲れてるわけだ。

 親父とお袋は、これで死んだ。

 正確に言えば。悪質な自動更新サブスクのダークパターンに嵌められた。解約ボタンは七階層下のメニューの、灰色の背景に灰色の文字で書かれた場所にあって、しかもタップすると「本当に解約しますか?」の確認画面が五回出る。五回目でようやく解約できるはずが、最後の「解約する」ボタンの位置が一ピクセルずれていて、隣の「プレミアムプランに自動移行」を押してしまう。

 気づいたときには年間契約が成立していて、途中解約には違約金として全額の二倍が請求される。払えなくてフリープランに強制ダウングレード。生体ボットネットの負荷が二人分——夫婦だから——かかり続け、三ヶ月で二人とも過労死した。

 公式の死因は「原因不明の脳機能停止」。表社会では不審死として片づけられた。ニューロ・リンクのことは誰も知らないから、誰も本当の原因にたどり着かない。

 嘘つけ。

 親父の死に顔を覚えている。目を閉じたまま、眉間に深い皺を寄せていた。最後まで、頭の中で何かが走り続けていたんだろう。他人の異能を動かすための演算が。

 巻き戻せ。いや、巻き戻すな。この記憶は再生禁止だ。今は。

 廃データセンターに着いた。旧渋谷エリアの東端。かつてはサーバーの冷却音が二十四時間唸っていたらしいが、今は骨組みだけが残ったコンクリートの墓場だ。錆びた鉄の扉をこじ開けて中に入る。

 暗い。ARのナイトビジョンは無料プランだと解像度が荒すぎて、輪郭すらまともに見えない。緑色のモザイク画みたいな視界で歩くくらいなら、目を使ったほうがマシだ。ポケットからジャンクで作った手回し懐中電灯を取り出し、ぐるぐる回して点ける。じわっと白い光が広がる。アナログ最強。充電不要、通信不要、広告なし。

 サーバーラックの残骸が並ぶ通路を進む。足元にケーブルの残骸が蛇みたいに散らばっている。埃の匂い。錆の匂い。冷たい空気。

 中継アンテナの基盤を探す。型番が合えば、デバイスの通信モジュールをアップグレードできる。もう少しだけ安定した通信があれば、もう少しだけ複雑な詐欺UIを組める。

(もう少しだけ。あいつらを落とせる)

 指先が基盤に触れたとき、天井からガラスの破片が降ってきた。

 パラパラと最初は小さく。次にバキッと鈍い音。コンクリートの粉塵が舞う。

 振動。上から。重い。

 何かが落ちてくる。

 俺は反射的に後ろに跳んだ。手回し懐中電灯が手から離れて転がり、光がぐるぐる回る。三秒後、天井を突き破って、銀色の何かが落下してきた。

 ドゴォン、と床が揺れた。

 瓦礫が舞い上がる。粉塵で息ができない。パーカーの袖で口を押さえて待つ。十秒。二十秒。

 粉塵が薄れると、そこに人がいた。

 銀髪。長い。汚れた軍服風のドレス。白い手袋の片方が破れている。凛とした顔立ち。目が合う。青い瞳。そして——体の周囲を覆うように点滅する、赤い文字列。

  ACCOUNT SUSPENDED   ACCOUNT SUSPENDED   ACCOUNT SUSPENDED

 永久凍結のウォーターマーク。俺のフリープランの透かし文字とは比べものにならないほど派手で、禍々しい赤色が彼女の顔を照らしている。

 脳が2ミリ秒で記憶を引いてきた。裏のネットワークで流れてた噂。先月だったか。「規約違反で処分された上位ARレイヤーの令嬢」。エンタープライズ契約を永久凍結されたとか何とか。表のニュースには一行も出ない。この世界のことは、この世界の住人しか知らない。

 彼女は瓦礫の中から上半身を起こした。ドレスの裾がコンクリートの粉で白くなっている。膝に擦り傷。でも骨は折れていないらしい。さすが元エンタープライズ。フリープランの人間ならこの高さから落ちたら死んでる。

 銀髪の令嬢は、俺を見た。

「……ここは、どこ?」

「アンダー・ラグ。東京の最底辺」

「最底辺」

 彼女はその言葉を噛みしめるように繰り返した。視線が俺の顔から、廊下の瓦礫に移り、錆びたサーバーラックに移り、天井の穴に移った。

「……そう」

 それだけ言って、立ち上がった。ふらつかない。強い。

 遠くで、電子音が鳴った。

 甲高い音。聞き間違えようがない。モデレーター部隊の接近警報だ。利用規約の執行官。経費無制限のPay to Win課金で武装した、オムニバース社の私兵。表社会には存在しない部隊。彼らが動くのは常に秘密裏だ。

 こっちを追ってきてるのか? 無意識に右耳の後ろに手が伸びた。ニューロ・リンクの接続端子。癖だ。焦ると触る。

 銀髪の令嬢は、その音に一瞬だけ目を細めた。それから俺を見て、言った。

「逃げた方がいいわ。私を追って、来る」

(面倒ごとが降ってきやがった)

 文字通り。

 俺は転がった懐中電灯を拾い上げ、パーカーのフードを深く被り直した。

 基盤の回収は、またの機会だ。